特報!「夕刊フジの挑戦」 出版記念の集いに120人

出版から5ヶ月、2005年3月12日、東京・日比谷の日本プレスセンター10Fで「『夕刊フジの挑戦』出版記念の集い」 が開かれました。もともと本の売れ行きよりも、こちらが本願というところがあり、満を持したOBが東西から集まりました。 世話人会はなんとか80人を確保したいと願ってましたが、当日なんと120人。広い会場が狭く感じるほどでした。

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ライブドアとの闘いの最中にも関わらず羽佐間重彰・フジサンケイグループ名誉顧問、住田良能・産経新聞社長などの幹部。 大阪から、浜松から、九州・佐賀から、上州・高崎からと遠方からも参集いただきました。

永田照海家から民子夫人と舩越依津子さん母娘。藤村邦苗家から玲子夫人と田辺麻夕子さん母娘。鈴木弘家から美智子夫人とご子息の秀朋氏。細谷洋一家から 久美子夫人。7人のご遺族においでいただきました。物故者への黙祷のあと、羽佐間名誉顧問のあいさつ。時節柄ライブドアと闘う方針を述べた後「夕刊フジは産経に大変な功績を残した媒体だが、鹿内信隆さんが 作ったということになっていて、本人の著作でもそうなっている。でも今回、馬見塚さんの著作で詳しく経緯が書かれて、これで初めて正史が出来たという思いです」

そうなのです。あの日永田照海氏が会社に戻ってきて、「おい、題字は夕刊フジに決まったぞ」といった近くに居合わせました。試刷りの段階の「東京ニュース」 やなんかいくつかの中から決めたのが鹿内信隆氏だったのです。本では氏は最初反対したとはっきり書かれています。

ついで住田良能・産経新聞社長が、パリの山口昌子支局長、千野鏡子・論説委員(2月異動で)、加藤雅巳・営業担当、正論執筆陣の高山正之・帝京大教授 など(ほかはあまり聞き取れず)の名前をあげて「産経はいま夕刊フジの人材に支えられています」と述べて乾杯の挨拶。

馬見塚達雄さんへ花束贈呈。みなさん忘れていたようですが、これがこの日のメーン行事なのです。ついで御大、山路昭平さんが「お祝いの言葉」。いきなり「プレスセンターの 音響効果はなってない」と恫喝を一発。いつもの手口なので誰も驚きません。創刊メンバーの人選の話やなんかながながとあり、これはえらいことになるかなあ、と心配になったころ 「話を変えます」と結びへ、さすがの達人技でした。お二人とも大病の後で、馬見塚さんは夫人と姪御さんが、山路さんも洋子夫人が付き添いがてら出席されましたが、大変元気で 腰痛の原口順安氏などよりよほど安心感がありました。

司会は小泉良夫、芝沼隆一のお二人でしたが、このコンビでは夕刊フジの忘年会の気分でした。大変凝っていて バックに流れる曲は、

青春の うしろ姿を
人はみな 忘れてしまう
あの頃の わたしに戻って
あなたに会いたい

ユーミンこと松任谷由実は、1970年代荒井由実として5枚のアルバムを出している。夕刊フジ創刊直後のヒット曲か ら「あの日にかえりたい」。曲に乗って創刊以来の話題の紙面がスクリーンにつぎつぎ現われて、大手町旧社屋2階の ボロ編集局へと思い出がつながりました。

海外組は「メールで参加」のコーナーで読み上げられた。山口昌子・パリ支局長は「わが夕刊フジはわが青春。 山路社長の『新聞も商品。特種か分析が優れているか文章が良いかだ』という教訓、今も頭の中にしっかりと植え つけているつもりですが、なかなか実行は難しく、日暮れて道遠しの心境です。皆様のご活躍を祈りつつ」

ソウルにいる久保田るり子特派員からは長いメッセージ。全文紹介します。

 夕刊フジの皆様、大先輩の皆様へ

ソウルの久保田るり子です。このたびは「夕刊フジの挑戦」の出版、まことにおめで とうございます。こちらの特派 員仲間が偶然に入手し、『久保田さん、夕刊フジ出身だったよね』とわざわざ届けてくれました。とても懐かしい思い で一気に拝読いたしました。夕刊フジという媒体がいまとなっては信じられないほどの迫力と刺激を持って躍動して いたことをつくづく感じました。

その『夕刊フジ』には私、なんと16年間も在籍いたしました。入社は1975年(昭和50年)です。在籍だけでいえ ば、おそらく山口、千野大先輩より実は『新人、久保田』のほうが長くいたかもしれません。フジでは一番年の近い 先輩が阿部耕三さんで、後輩はたしか田中規夫さんの世代。私の前後は約10年にわたり新人が入らなかった のです。このため、私は『いつも新人』『永遠の新人』でした。朝、紙面に何か問題があると『ど、ど、ど、どういうこと なんだ』と大きな声で灰皿などを飛ばす、怖ーい怖ーい山路局長のそばにはとうていとうてい、近寄りがたく。また、 きら星のような、殺気さえただよう辣腕先輩をみながら、『いつか自分もあんな風に一人前になれるのかなあ』、な どと。

また新人教育係りだった岡芳輝大先輩に『会社』の取材で何度も何度も原稿をゴミ箱に捨てられて、 同じ会社に3度も4度も取材に行き、対応の広報部長さんから『今度は何しゃべったらいいの?何でもしゃべるか ら君もがんばりなさい』などと慰めてもらったことなどを思い出します。

ご本の『夕刊フジの挑戦』には私、久保田のことも学芸部の金田部長(当時)と悪戦苦闘した狐狸庵対談の学芸 部時代のことを紹介していただきました。馬見塚大先輩、ありがとうございます。記者としてというより、人間として、 礼儀も挨拶もまともに出来なかった当時の私を教育してくださったのが遠藤先生そして金田部長でした。 『久保田、久保田』と可愛がっていただきました。

本にも出てきますが、九州の女やくざの姉御のところに、遠藤先 生と2人でゲラの”検閲”を受けに出向いたことがあります。ゲラ検はまあ何とか無事に終わり、ホテルに戻って 食事のあと、遠藤先生が夜のラウンジに誘ってくださったのですが、肝臓の悪い先生はお酒がのめません。とこ ろが『今夜は久保田と飲もうと思って・・・』とかばんのなかから、やわらノンアルコールのビールを出されました。 のんべいの私のためにわざわさ東京からノンアルコールのビールを持参されていたのでした。人への気遣いとは こういうものなんだ、とつくづく感動したのをいまでも覚えています。

夕刊フジの劣等性だった新人久保田も何とか、ようやくまあ一人前のようなものとなり、目下は最前線のソウルで 特派員をやっています。福岡のホテルで遠藤先生とビールを飲んで涙ぐみ、金田部長のあとをちょろちょろと追い かけていたころを考えると本当に夢のようです。

ソウルに来るようになったきっかけは夕刊フジでした。学芸部の音楽担当だった1983年、CBSソニーの招待で 趙ヨンピルの『釜山港へ帰れ』を日本人の演歌歌手(名前も思い出せません)が韓国で歌うことになり、ソウルに 初めて行ったのが私の朝鮮半島初体験で、その後の記者人生を変えるきっかけになったのですから。

たまたまソ連による大韓航空撃墜事件直後だったため、続報をホテルから送ったところ、翌日から露骨な安全企画 部(情報機関)の監視を受けたのです。これが、『いったいこの国はどうなっているのだろうか』という、私の出発点 となったからです。あれからもう22年です。冬ソナから金正日まで、まだまだ実力不足ながらなんとかかんとか一 応、対応できるようになったのは夕刊フジの16年が基礎となったと思っています。

大先輩のみなさま、後輩のみなさま、そして夕刊フジのおかげだと感謝しております。皆様のご健勝と夕刊フジの ますますのご発展をソウルの空の下より、キムチと焼酎でお祈り申し上げます。何かの機会にソウルにいらっしゃ る機会がありましたら、ぜひお気軽に声をかけてください。長長となりましたが、これにてご挨拶に代えさせていた だきます。重ねましておめでとうございます。そしてありがとうございました。

   2005年2月28日、産経新聞ソウル支局 久保田るり子。

現在、夕刊フジを預かる高尾元久・代表が壇上に現役のみなさんを上げて「先輩諸氏が築いた土台の上でがんばり ますのでよろしく」と締めのあいさつ。田中健雄・営業局長、古閑正・整理部長、勅使川原豊・報道部長、別府育郎・運動部長、 三保谷浩輝・報道担当部長、小森照生・営業部長、高見修次・編集長などなど。OBが古くなるわけです。最後に世話人を代表して 松村幸夫氏がこの日の集いまでの経過に触れながら感謝の言葉を述べて散会。

だいぶ参会者も帰った後だったが集合写真を撮ろうという声が多く、急遽、居合わせた人たちだけ集まって、三好英輔・元カメラマン のデジカメに納まった。その後も、「定期的にOB会を開いて欲しい」との声が多く寄せられ、OBの方々の懐旧の念の強さを感じた ことでした。この件はまた幹事団で考えることとします。

夕刊フジ紙面でも紹介

パーティーの様子は、週があけた15日発行の夕刊フジで紹介されました。4面(ニュース面です)の 「編集局から」というコラムです。昔の「編集長から」で、佐々木浩二記者が「後輩としては目もくらむ思いでした」 とか。

23日、松村幸夫・元整理部長のオフィスに8人の世話人、司会者が集まり会計処理。デジタル世代は欲しければ写真を勝手に ダウンロードするけど、アナログ世代も多いことなので紙焼きを送ることに。その経費を入れても赤字にはならない見通しです。 これもたくさんのOB、現役のおかげです。ありがとうございました。

「夕刊フジOB会を」という声が多かったのですが、これも実現の方向です。馬見塚達雄・会長、山路昭平・名誉会長(名誉顧問との声も) あたりまで決まりました。年一回くらいは集まりたいものですが、いずれまた報告できるでしょう。