シェークスピアの喜劇「ヴェニスの商人」では、アントーニオはユダヤ人の金貸し シャイロックから「返せなかったら肉1ポンドを切り取る」という証文で金を借りた。ところが全財産を積んだ船が難破し、借金返済は不可能に。だが法廷で裁判長は「肉は正確に1ポンド だけ取れ。血は1滴も流してはならない」との名判決を下しアントーニオは救われる。
翻って日本ではリニア中央新幹線の建設工事を巡って、静岡県の川勝平太知事はJR東海相手に、「トンネル工事の現場は大井川の源流である。一滴の水も残らず元に戻せ」とゴネている。ヴェニスの裁判長気取りのおかげで、突貫工事で令和9年の東京・品川-名古屋間の開業目指していた国家事業は頓挫を余儀なくされている。
この南アルプストンネルは山梨、静岡、長野の3県にまたがる全長約25キロの長大なトンネルで、建設工事は山梨県と長野県の東西の出入り口から掘り始めるが、静岡県内でも南アルプス山中に造る非常口から掘り進めることになっている。静岡県内の区間は10・7キロ、リニア全線の2%にも満たない区間だが、「静岡県民の命の水だ。湧出する全量を元に戻せ」というのが川勝知事だ。
南アルプストンネルは山梨県内の富士川水系、静岡県内の大井川水系、長野県内の天竜川水系という三つの異なる大きな水系を貫いている。そのうち静岡側の全長168キロの大井川の流域には14カ所のダムと20カ所の水力発電所がある。発電に使われた表流水は農業用水、工業用水、上水道に再利用されている。また、島田、焼津、藤枝、吉田の3市1町に地下水を採取する井戸が約千本あり、流域の人々の生活、生業を支えている。
「命の水」という主張は事実で、大井川水系の水は余す所なく利用されている。建設中にトンネル内から湧き出た大井川水系の水は、トンネルの両端から外に出てしまうと他県に流れ大井川流域に戻ってこない。確かにもっともな主張で県民にも理解が得られそうだが、実はパラドックスに満ちている。
JR東海が環境影響評価準備書に記した「毎秒2トン」の水量について、川勝知事は県民62万人の「命の水が毎秒2トン減る」と喧伝するが、その水量については、JR東海があくまでも「最大で毎秒2トン減水と予測」した数値であり、それも「覆工コンクリート等がない条件」での話なのだ。大井川水系で、常時、毎秒2トンの水が減るわけではない。
大井川の平均流量(毎秒約75トン)に比べ、工事中の一定期間、山梨側に流出する量(毎秒0.3トン)が大井川中下流域に及ぼす影響が多いとは思えないと、トンネル工学を専門とする首都大学東京の今田徹名誉教授は中日新聞のインタビューで答えている。そもそも、トンネル工事で発生する湧水は、その工事による河川の減水分より多い。そのまま地中にとどまる水もあれば、水脈をたどって山梨県や長野県に流れている水もあるからだ。
さらに、川勝知事が「黙して語らない」大量の水がある。桜井勝郎・静岡県議会議員が県会で質問したものだ。
「トンネル工事で最大で毎秒2トンの水が県民の命にかかわるというのなら、なぜ、(大井川上流にある)東京電力の田代ダムで毎秒4.99トンの水を、導水路トンネルで(大井川流域ではない)山梨県側の発電所に送り、富士川に放流させるのでしょうか。今では山梨県側に放流する水量は、交渉によって5月から8月の間だけは毎秒3・5トンに減らすことになりましたが、それにしても、田代ダムから県外に放出してきた水の量は毎秒4・99トンで、JR東海で問題にしている毎秒2トンの2・5倍です。地元マスコミも、田代ダムの水については、知っているのに報じないのはおかしい」
「毎秒2トンの命の水」をいうのなら、東京電力に掛け合って田代ダムで山梨県側に放出している量の半分を戻してもらうよう交渉すれば済む話である。
ところが川勝知事は「毎秒2トンの全量を元に戻せ」と固執する。そればかりではなく、JR東海に「リニアに反対しているわけではない。リニアで甲府に来て、甲府から世界で最も遅い特急列車で静岡に来て、静岡から東海道新幹線で帰る」という富士山一周観光ルートを提案してみたり(誰がそんな観光するものかと一笑に付されている)、最近ではリニアのルートを甲府側の平地に変更せよと言ってみたり(リニアのメリットを活かすべく直線コースが選ばれているというのに)、無理難題を吹っかけるばかりである。
こうした態度を県民がみな支援しているわけではない。「命の水」の大井川流域10市町がこぞってリニア工事に反対しているかのように川勝知事と地元メディアはいうがこの中に静岡市は入っていない。流域の10市町でつくる協議会の会長は静岡市だがそのトップが知事の独断専行を批判しているのだ。
田辺信宏静岡市長は「政治の役割は『決める』ことだ。川勝平太静岡県知事はそろそろ(工事への対応を)決めないといけない。国の有識者会議も、締め切りを『ここまで』と決めて集中的に議論しないと開業目標の2027年がどんどん後にずれてしまう。調整機能を県知事が果たせないのなら、国にお願いするしかない。早く合意点を見つけてほしい」
もともとこの静岡市と川勝知事とは反りが合わないこともあるが、トンネルがある奥地と静岡市を結ぶ直通道路建設を急ぎたい事情がある。中山間地域である井川地区は昔から大井川水系の島田市や川根本町との交流が深かった。そのため、1969年に静岡市と合併する際、旧井川村の村長から『合併するなら静岡市街と快適にアクセスできる道路を作って欲しい』と要望を受けていた。
総工費140億円を静岡市は出せず、国土交通省も費用対効果がない道路に国費があてられないとして塩漬けになっていた。ところがJR東海にはリニアのトンネル工事現場までの道路が必要だったこともあって、18年6月JR東海と静岡市の間で道路整備について基本合意に達した、ようやく光明が見えてきたときに川勝知事が横ヤリを入れたため道路整備が頓挫しかねない事態に静岡市は我慢できないのだ。
予定通りの開業に期待するのは、国やJRばかりではない。沿線9都府県でつくる建設促進期成同盟会の会長を務める愛知県の大村秀章知事も「関係者が英知を絞って問題を克服し、一日も早く着工してもらいたい」と開業時期に頓着せず大井川の水問題にこだわり続ける川勝知事の態度へのいらだちは隠し切れない。
東西に長い静岡県。伊豆、駿河、遠州の3つの国から成った県で、三者三様の県民性がある。また、日本の東西の分岐点でもあるので、電気の周波数から、食文化まで静岡県内でもきっぱりと分かれている。そこで、いざ食えなくなった時の県民の態度としてこんなアネクドートがある。
中部の駿河は優柔不断で、とりあえず人に乞うてしのぐ「駿河の物乞い」、西部の遠州は気性が荒く、経済感覚がシビアなので「遠州泥棒」、東部の伊豆は何もできない「伊豆の餓死」と、性格を揶揄されてきた。
地元財界の大物で大昭和製紙社長や衆院議員6期努めた斉藤滋与史知事が2期8年つとめ、3期目も出るかと思われたが病気を理由に出馬取りやめ(その後健康を取り戻し2018年100歳で死去)、ダークホースだった総務省総務部長から転身した石川嘉延知事が4期16年。いずれも温和な駿河の人だった。
それに比して川勝平太知事は大阪生まれの長野県人、遠州浜松にある静岡文化芸術大学学長に招かれ石川知事のブレーンを務めていた「余所者」。石川知事が任期を1ヶ月残して静岡富士山空港の立木伐採の問題の責任をとって辞任したあとを襲って就任して現在3期目。長いものには巻かれろの県人気質をいいことにこのところ独断専行が目立つのである。
静岡県には有力な政治家はいないのと、本来調整に当たるべきは国交省だが。、ここも代々、公明党の牙城と化し現在の大臣ははっきり言って能力不足で何をしているのかさっぱりわからないと来ている。
川勝知事には問題解決の意思はない。それは、以前持ち出してすぐ発言撤回した「ルート変更」を最近また持ち出していることでもわかる。ただただ「水一滴残らず元に戻せ」論でJR東海を困らせることだけが目的なのである。
リニアは国策であろう。今こそ中央政界の出番である。国交省とJR東海の交渉に任せていては埒が明かない。今は政府が直接介入して、川勝知事を黙らせるか、首を取るくらいの覚悟が必要である。