終戦を国民に伝える昭和天皇の「玉音放送」の原盤が8月1日初めて公開される。70年ぶりに原盤の再生に成功し、デジタル録音した音声も公表されるという。玉音放送は、終戦前日の昭和20年8月14日に当時の宮内省庁舎で録音され、15日正午からラジオで流された。放送後に一時、GHQに貸し出され、現在、テレビなどで使われている音声はGHQが複製したもの。
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あの暑い夏の日から70年。ブログ子はその時6歳だった。山形県米沢市の母の実家に疎開していた。生まれたのは東京・板橋区常盤台
だが日に日に空襲が迫り、陸軍士官学校で国漢文科教授をしていた父も覚悟を決めて妻子だけでも陸奥に送りだしたのだが、子どもにと
っては食べる心配もなく稲田の間にわんさといるイナゴ取りに熱中できる居心地のいい場所だった。
母の実家は米沢織の機屋をしていた。絹織物は贅沢品で一般には売れなかったがこの時期パラシュートの布地に使われていた軍需物資で、それ故米軍による空襲も予想されて、8月15日朝から人夫数人が入って防空壕を掘り始めた。縁側の向こうに鯉が泳ぐ池があり、そのそばの築山に何本かの松の木が植わっていた。その根っこのそばから穴を掘るので手間取って、昼までにやっと数メートル掘り進んだところで昼になった。
縁側にラジオが据えつけられその前に番頭さんや人夫、女工さん、なにもわからないながら疎開中の従兄、従弟も植木鉢が並ぶ台のあいだに並んでその時を待った。ラジオは雑音がひどくわかりにくかったが単語を繋ぎあわせて、負けたことだけはわかったようだ。子どもたちは何事か理解できなかったが、大人たちが涙を流すのを見て、ただならぬことだということだけはわかった。
打ちひしがれた人たちが持ち場に戻ったあと蝉がジイジイとやかましく鳴き始めた。人夫たちは午前中掘った防空壕を埋め戻しにかかった。そばに大きな龜(かめ)があった。祖父が盆栽にくれてやる肥料肥えをつくるもので鯉料理の内蔵や骨などが放り込まれるのでものすごく臭い。子どもたち辟易して近づかないものだが、防空壕を掘るにはどうしても龜を壊さねばならないと云われた祖父が、壊すのは最後にしてくれといったため後回しになって助かった。
3ヶ月ほどあとに米兵がジープで市内に入ってきた。大勢が見物する後ろからブログ子は「鬼畜」めがけて石を投げた。届かなかったのだろうが石の行方をみることなく一目散に田んぼの畦道を駆け戻って蔵の中に入り夕方までブルブル震えながら忍んでいた。
当時は判らなかった結語の一文がいまわかる。「擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」
敗戦から70年。「玉音放送」に一億奮起して今の繁栄を築いた日本人のスタート台だった。