若い人にはわからないだろうが、そうした扱いもむべなるかなという存在だった。ブログ子は八千草薫のファンで自分のホームページでさんざその馬鹿っぷりを書き散らしているのでそれほどのショックはないのだが、原節子は「引退」を発表して52年間、それを守り通したことに感嘆するのである。
今回の報道で各社写真を掲載しているが、いずれも昭和20年~30年のスクリーンの写真である、スナップに至っては昭和25年前後の撮影が「一番新しい原節子像」ときている。(右下写真はその一枚)
引退を発表した昭和38年というのはブログ子が新聞社に入った年である。そんな発表があったという記憶もないが、それから52年、こちらも引退してこんな雑文を書き散らしている。半世紀も隠遁、隠棲生活を守るというのは並大抵のことではない。
漢詩の世界では陶淵明の「帰去来の辞」の「田園 將に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる」や屈原が汚濁の世に絶望して身を投げた「汨羅(べきら)の淵」を思うところだ。「隠遁」も「隠棲」も世間から「隠れて暮らす」ことだが、前者は「 世の中から逃げ出すように」暮らすことで屈原に近く、後者は「ひっそりと目立たないように」暮らすことで陶淵明に近いか。原節子の生き方は後者の「隠棲」に近い。
もちろんマスコミが放っておくはずがなく、写真週刊誌だか遠くから望遠レンズで隠し撮りしたことがある。表情も定かでなく、ただその手法のあざとさばかりが目に付いた。なにも逃げ隠れしていたわけではなく、近所の男性(76)に「よると、数年前まで、帽子をかぶり、家の前を掃除する原さんをしばしば見かけた。「自然な様子であいさつを返してくれた。大スターというより、普通の主婦という印象だった」という。新聞などもよく読んで世情にも通じていたらしい。
私生活も未婚でゴシップ種がなく、“永遠の処女”とも言われた。これに加えて以上のような隠棲ぶりへの好奇心が重なって神秘性を増した女優だった。引退の理由も明らかにしなかったが、ブログ子は「殉死」したのだと思っている。昭和38年12月12日に生涯独身だった小津安二郎が60歳の誕生日に亡くなった。原節子は通夜に駆けつけて号泣した。記帳には本名の「会田雅江」と書いている。原節子は43歳で恩師に「殉死」したのである。