朝鮮半島有事の際、韓国軍には指揮権がない。未だに国連軍=米軍の指揮の下にある。なぜか。韓国兵は敵前逃亡を常とするからである。それも、階級が上の者から逃げる。上が逃げれば下は我先に逃げる。
朝鮮では朝鮮の高麗、李氏朝鮮時代から長く両班(りゃんぱん)政治が続いた。文官は東班(文班)、武官は西班(武班)に分けられていたのでこの名があるが、彼らは官位・官職を独占世襲し、種々の特権・特典を受けた。特権的な官僚階級は一時は国民の6割を占めた。働かず命令するだけの人間はいざとなると部下に責任を押し付けて逃げる。この「伝統」が今も生きる。
だがその韓国で唯一「逃げなかった男」、白善燁将軍が10日深夜、死去したという。99歳。
朝鮮戦争当時の1950年7月、押し寄せる北朝鮮軍の怒涛の侵攻に韓国軍はなすすべもなく逃げに逃げた。あっという間に半島先端の釜山近くまで後退、このとき第1師団長として釜山橋頭堡の守備についたのが白善燁准将だった。逃げ腰の兵たちを前に8月21日に訓示を述べた。
「連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。だがここで我々が負ければ、祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山は陥落する。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっている。死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っている。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう!」
第1師団の戦意を疑っていたアメリカ第27連隊マイケレス連隊長はこの姿に感激し、以後のアメリカ軍と韓国軍の間の信頼度が増したとされる。日本の将校ならどこでもこれくらいの檄を飛ばすものだが、韓国では稀有であった。
白将軍は戦前に平壌の師範学校を卒業した後、奉天にあった満洲国軍官学校(満洲国の士官学校)に進学し軍人となり、北支でゲリラ討伐に加わった。日本人から教育をうけ、日本人とともに戦った日本軍人だった。
9月15日、仁川上陸作戦が成功し国連軍の反攻が開始されると、アメリカ第1軍団の指揮下に入った韓国第1師団は北進に参加、9月18日に北朝鮮軍の間隙を突き、戦線を突破して北朝鮮軍の背後に進出し、退路を遮断した。10月19日には平壌への一番乗りを果たした。
白将軍はその後陸軍参謀総長を務め、朝鮮戦争の休戦後は、合同参謀会議議長などを歴任した。軍退役後は、外交官としてフランス、カナダ大使などを歴任。交通相も務めたほか、1970年のよど号ハイジャック事件の解決にも関与した。
韓国では長く「朝鮮戦争の英雄」として称賛された。朝鮮戦争当時の体験を記した著書は日本でも出版されており、「白将軍」の名で知られた。
しかし、彼の武勲が称賛されているのはもっぱら日本側だけで、文在寅左翼政権が誕生してからは親日派の人物として冷たくあしらわれていた。親日反民族行為者リストにも名前が上がっていて、本来は軍功からいって京城の国立墓地(顕忠院)に埋葬されるべきなのだが、文大統領がダメ出しして除外された。
結局、白将軍はこの法律が施行される前に死んだので、親日狩り法律は適用されず、将軍の葬地は、一段下の大田顕忠院に決まった。報勲処によると、「ソウル顕忠院の将軍墓地がいっぱいのため」だという。韓国に国立墓地がいっぱいになるほどの忠勇の士が他にいたとは驚きである。