「バカチョン」考

plt1504030024-自民党の谷垣禎一幹事長は3日、大阪府議選と大阪市議選の応援のため大阪市内で行った街頭演説で、差別的表現を用い、直後に「不適切だった」として撤回し陳謝した。

谷垣氏は維新の党が推進する「大阪都構想」について「維新は『官邸や自民党本部が賛成しているのに大阪府連は反対している。ばかだ、チョンだ』という議論を言っているが、言い過ぎではないか」と述べた。

この直後、谷垣氏は「不適切な発言をし、不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ない。おわびして、撤回する」とのコメントを出した。

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「チョン」は韓国・朝鮮人への差別的表現に用いられることがあり、谷垣氏は発言を撤回したが、野党からは批判と驚きの声が上がった。維新の党の柿沢未途政調会長は記者会見で、「大変品位のある谷垣氏の言葉とは、にわかに信じがたい」と批判、民主党の岡田克也代表も会見で、「注意深く発言する谷垣氏らしくない」としつつ、「不適切発言であるのは間違いない」と指摘。共産党は「発言を撤回したのは当然だ。関係者へのおわびもあってしかるべきだ」とのコメントを出す騒ぎに。

今では「差別用語」として定着しているので、言い訳すればするほどおかしくなる。ここは全面降伏しかあるまいが、つい10数年前まではだれも差別用語として使っていたのではない。「ピンからキリまで」と同じように言葉に勢いをつけるための「チョン」だろうくらいにしか思われていなかった。少し考える人でも「チョット変な人」くらいの意味だと思っていたのではないか。

それが証拠に、「バカチョンカメラ」が大ヒットした時発売元の大手フィルムメーカーは広告に使おうとしたくらいである。関西では朝鮮人の蔑称で「チョン公」などと使うのでわりに敏感だが、関東ではそうではないから、プレスリリースに堂々と「バカチョンカメラの決定打」だったか、フレーズの詳細は忘れたがA4の紙の真ん中にこの言葉が印刷されていた。

おりしも部落解放同盟による言葉狩りが全盛期に入っていて、遠藤周作がエッセイで使った「隠亡」とか、芸能記者が自虐的に書いた「士農工商芸能人」がやり玉に上がり、あわや糾弾の対象にされかけた。ブログ子はそのとき編集責任者として折衝にあたったのでよく知っている。岡山の全国大会に「招待」され、炎天のなか最前列に座ったりして同盟幹部と手打ちにこぎつけた。他の全国紙もいろいろやり玉に上げられていた。今も部落解放同盟の全国大会の開催記事がベタながら各紙紙面の片隅に載るのはその時の和解の条件である。

ついでながら、この時「茶筅(ちゃせん)」が差別用語であることを幹部から教えられた。いわれは知らないがあの岩波書店の広辞苑には(3版まで)確かに差別用語と明記されていた。「こっちは茶筅ですから」と差別糾弾の先頭にある人たちが言うのである。

こうした動きをよく知っていたので、そのうち「バカチョン」が浮上してくると思ったので、そのフィルムメーカーの広報責任者にこうした経過を説明した上で以後新聞、テレビの宣伝文には決して使わないように「忠告」した。T広報課長はその後の大騒ぎをみて改めてこの「忠告」に感謝したのだろう、わざわざ社を訪ねてブログ子に礼を言って帰った。ために最近まで同社の広報関係の宣伝物は宅急便やメールやFAXで逐一届けられてきた。2、3年前に女性の広報担当に変わって、過去をを知らないのだろう、ようやっと沙汰止みになった。

本当の語源は分からないというのが本当のところだろう。学問的に研究した人もいなかろう。でも今では定着したようで、ゆえに谷垣幹事長のようにさっさと謝るしかないのである。同和関係の議員の多くが社民党から民主党に移っているが、その岡田代表が「注意深く発言する谷垣氏らしくない」とやんわりした表現をしているから、ことを荒らげるつもりはないようだ。またそうあるべきだろう。

「差別」という言葉に異常に反応する人がいる。例えば、産経新聞2月11日付朝刊の「労働力不足と移民」と曽野綾子のコラム。

「他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい」として、 日本は労働移民を認めねばならない立場に追い込まれている。そのためのバリアは取り除かねばならない。同時に移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。それは非人道的ではない。

 南アフリカ共和国の実情を知って以来、居住区だけは白人、アジア人、黒人と分けて住む方がいいと思うようになった。白人だけが住んでいた集合住宅に、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。彼らは大家族主義で、1区画に20~30人が住みだした。マンションは水の出ない建物になり、白人は逃げ出し、住み続けるのは黒人だけになった。研究も運動も一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい。

というコラムに、朝日新聞と毎日新聞を筆頭に、南ア大使まで動員して「アパルトヘイトを許容している」と産経に抗議、ロイター通信など海外メディアも「首相の元アドバイザーがアパルトヘイトを称賛」といった見出しで報じた。よく読めば生活習慣が違うものは別々に住むほうがうまくいく、といった程度なのだが、以上のメディアはことさらに煽った。朝日新聞の求めに応じて出した曽野綾子氏のコメントはこうだ。
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私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。

 私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません。そのような記事を配信した新聞は、日本のであろうと、外国のであろうと、その根拠を示す責任があります。もし示せない時には記事の訂正をされるのがマスコミの良心というものでしょう。

 私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。

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曽野綾子氏は他の作家がこうした問題ではひたすら新聞社に「よろしく頼む」と逃げる中でも、ただひとり「一切の抗議は私一人で対応します」という硬骨漢だった。今回も毅然としたコメントで一切の恣意的な「差別問題」は雲散霧消してメディア側のいやらしさだけ残った。

会社でも官庁でも社会のどこでも大なり小なり「差別」はあるものだ。運動会で一着二着と差別するのはいけないという日教組的まやかしが大手を振ってまかり通ったことがあった。今でもそれを守っている学校がある。そちらのほうが異常というべきだろう。

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