いじめた当人の責を問え

岩手県矢巾(やはば)町で中学2年の村松亮君(13)が列車に飛び込んで自殺した事件。担任と交わしていた生活ノートには「氏(死)んでいいですか?」「もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」とある。悩み悩み、死ぬことを考えたものの、「死」という言葉の恐ろしさに身がすくみ、書くことができず「氏」とか「市」で代用していたのだろう。哀れでならない。

担任との生活ノートには「死」をうかがわせる文字があったのに

担任との生活ノートには「死」をうかがわせる文字があったのに

ずっと前からいじめがあったのに学校も市教委も把握せず、報告では「いじめ0(ゼロ)」としていた。あわてて「第三者委員会」を立ち上げたが、今流行りのこんな委員会なぞ、なんの役にも立たないことは、沖縄の翁長知事が名護市辺野古の埋め立て承認に関する第三者委員会を見てもわかる。担任は亮君が「死」のサインを再三出しているのにはぐらかしたような返事ばかりを赤字で書き込んでいたというので批判しきり。女教師当人は憔悴して寝込んでいるという。

現場にしゃがみ込む亮君の母親

現場にしゃがみ込む亮君の母親

責任の所在はどこかについて、マスコミは大騒ぎをし、論調は「人の命の大切さを学ばせるべき」とか、「カウンセラーの充実」とか、「思いやりの精神を育む教育行政」といったむなしい識者の発言が並んでいる。おかしくはないか。いじめた当の相手の名前がノートに書かれている。女生徒だともいう。いじめの問題では悪いのは「いじめた奴」に決まってるだろうに、今回もなぜか皆、触らぬようにしている。子どもだからというのだろうが、公開の場に引き出すようなことをせずとも当人に責任があることをわからせる処置というものは取れるはずである。

ブログ子の長女はNHK東京放送児童合唱団にいた。長じてはじめて告白したが、合宿で着替えの入った袋が初日になくなった。風呂に入っても着たきり雀で過ごし最終日どこからか出てきた。並んでいると後ろから尖った鉛筆の先で刺されたこともり「あれで性格が変わった」と述懐した。学校、趣味のサークル、職場・・・いじめはどこにでもあるものだ。

亮君のように優しくておとなしい者が狙われる。「命の尊さ」教育では埒が明かない。乱暴なように見えるがブログ子は、いじめた奴には担任も親も一緒に支援して断固闘いを挑むべきである、と思う。ただそこは教育の場である。闘いのあとどう両者を和解させるか、教師も学校も腐心せねばならない。

アメリカで子どもを学校に通わせたことがある人が言っていることだが、「私の娘はアメリカで教育をうけましたが、やはり日本人であることからか、なにがしかのいじめにあいました。その時、娘は先生にいじめを訴えると先生は答えたそうです。『「断固戦いなさい!』と。 またもう一人の男の子供も同じいじめにあったとき、まだ英語もろくにしゃべれないときでしたが、徹底的に取っ組み合いと殴り合いを校内で実行しましたが、学校からは何のお咎めもありませんでした。アメリカでは自己防衛や正義の為には戦え!と言うのが教師も含めた社会共通の大切な理念です」。

日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」を信奉する人が多いせいか、日本では、左の頬を打たれれば右の頬を出すように教えるキリスト教徒よりもやさしい。

世間というのはそんな信義に厚い輩ばかりではないのは、隣の国を見てもわかるだろう。いじめという理不尽には断固戦うことを教えたい。昔の仇討ちでは免状があれば女子供など非力な者に助太刀してよかった。いじめた奴にはみんなで加勢して立ち向かえ! 教育委員会や学校など当てにするな!

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