MRJ初飛行に胸高鳴る

96958A9E93819688E3E39AE3EA8DE3E3E3E3E0E2E3E7E2E2E2E2E2E2-DSXMZO9386152011112015000002-PB1-6三菱航空機が開発する国産初の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」が11日午前9時35分ごろ、愛知県営名古屋空港(同)から飛び立った。国産旅客機の初飛行は戦後初のプロペラ旅客機「YS-11」以来、53年ぶり。平成20年の事業化から7年以上かけて、ようやく初飛行にこぎ着けた。

離陸した機体はスマートで流体力学の究極のシルエットも美しくその瞬間胸が高鳴る興奮を味わった。ブログ子は直接航空担当記者をしたことはなかったが、JALジャンボ機の御巣鷹山墜落時はじめひところ相次いだ航空機事故のほとんどを取材した。ロンドンにBOACに招かれてコンコルド機に乗り、ジャンボ機(ボーイング747型機)が初めて日本に入った時には試乗してシュミレーターながら房総沖から羽田着陸まで「操縦」した。

「YS-11」には数え切れないほど乗った。今でも名機だと思うがそんなに乗った理由は、札幌に行くときは社命で東亜国内航空機に乗ることになっていたからだ。新聞社は戦後どこも航空部を持っていて盛んに取材に使ったが、のち分離され東亜国内航空会社となり大株主となったため優待券をたくさん持っていて年度内に消化するため、他社のジェット機を横目にこのプロペラ機で北海道に出張したのである。航続距離が短く、羽田から一気に飛べなくていったん青森の三沢基地に下りて給油したが、千歳でなく札幌市内である丘珠飛行場に着陸するのでかえって便利でもあった。

アニメ「風立ちぬ」は零戦の設計者・堀越二郎氏がモデルである。今に至るも名機中の名機に数えられる零戦は三菱重工業で作られた。米軍を苦しめた飛行機だけに終戦とともに 日本の航空機生産と研究開発はGHQによって一切禁止された。米国が航空機産業の復活を恐れたのである。禁止はサンフランシスコ講和条約発効の1957年まで続いた。この12年間の空白が日本の航空機産業にとって致命的な打撃となった。プロペラ機からジェット機へという世界の技術革新の大波からも取り残され、主に米国製の旅客機を買うだけの顧客に甘んじることになった。

失業した航空機技術者たちの多くは、ちょうど勃興期を迎えていた自動車産業や建築業界、コンピューターの開発者として拡散していった。それが現在の日本製自動車、ゼネコン、造船などの発展につながったのだが、航空機産業そのものは世界から取り残された。そんな中で、国産のターボプロップ機「YS-11」の開発気運が高まり、「輸送機設計研究会」がスタートした(YSは輸送機と設計の頭文字)。零戦の堀越氏はじめ戦前の技術者が集結し、1号機が64年に就航した。

名機の誉れ高く計182機を生産し、約10カ国に輸出したものの、生産を担当する日本航空機製造(株)が官民の寄せ集めで責任体制が明確でなく、官僚の天下りが増え、結局360億円の赤字を出し同社は解散した。作ったものの売り込む力が足りなかったのだ。こうして日本の民間航空機産業はその後半世紀の休眠を余儀なくされた。

日本の航空機産業の売上高は約1.3兆円で、自動車産業の50兆円やエレクトロニクスの13兆円、造船の2.7兆円にも及ばない。こうした中でようやく立ち上がったのがMRJなのである。日本の悲願がかかっている。

MRJはボーイングやエアバスという巨大2社との競合を避け、カナダとブラジルのメーカーが牛耳る小型機市場の一角に食い込む戦略を立てている。フィリピンまで届く足を持っているがリージョナルつまり地域間の近距離に100人以内の乗客を運ぶことを目的にしている。「YS-11」のセールス下手を学習して、今回はすでに世界のエアラインに407機の成約を得ている。600機の採算ラインに手が届くところまで来ている。

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