野坂昭如 ノーリターン

「火垂るの墓」などで知られる直木賞作家で、タレントとしても活躍した野坂昭如さんが9日午後10時37分ごろ、心不全のため東京都内の病院で死去した。85歳。

nosaka「焼跡闇市派」でもなく「無頼派」でもないが野坂昭如の訃報にはいささかの感慨がある。最初に出会ったのは新宿ゴールデン街の文化人が集まるバーだった。当時ブログ子がよく連れだって飲み歩いていた作家の田中小実昌が連れてきた。同じ直木賞作家だということや、焼け跡派として共有するものがあったのかもしれない。田中は進駐軍用将校クラブでバーテンダーをしていたことがあるし、野坂も「火垂るの墓」にあるように神戸大空襲で家を焼かれ、疎開先の福井県で義妹を栄養失調で失うなど戦後の辛酸をなめた。また片や窃盗容疑で起訴され、簡易裁判所で罰金刑(田中)、万引きなどが発覚し、少年院(野坂)という非行歴も引き付けたのかもしれない。

このバーでブログ子はおかまと大喧嘩した。しつこく絡むので「おかまは嫌いだ」と言ったら近所の仲間4人ほど引き連れてきてそばの電車道に呼び出された。酔っぱらっているのでこまかいやり取りは覚えていないが、おかまといっても屈強な男だからまず勝ち目はない。田中小実昌がこのあたりの「顔」であることを生かして取りなしてくれたので事なきを得た。席に戻ると野坂昭如が「おかまには一発”かま”してやれ」とへべれけの舌で洒落のめした。

ブログ子は「八ヶ岳の東から」というホームページを書いている。そのなかで 「マッチ売りの少女」というのを書いた。大阪社会部で釜ヶ崎を担当したときのことで天王寺公園に出没する怪しの人影を紹介した。マッチ1本灯(とも)している間だけ、スカートの中を覗かせる「営業」だが、これを読んだ大学の文学部で日本文学を専攻、野坂昭如の小説「マッチ売りの少女」の研究・調査をしているという学生氏から教わったのだが、ブログ子とほぼ同じころ野坂昭如も釜ヶ崎のドヤ暮らしをしていて、この時の体験で書いたものだという。

その後パーティーで顔を合わせるくらいで深い話もしなかったが、1990年10月、大島監督と女優・小山明子の結婚30周年を祝うパーティーで泥酔状態の野坂がいいきなり大島監督を殴る事件があったあたりから、あっちの世界に入ったような感じだった。2003年に脳梗塞で倒れたあと、自宅でリハビリを続けながら、すこしずつ書き物をしていたという。訃報を聞いて野坂40代、ブログ子30代のゴールデン街の決闘を思い出した次第。

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