「覇道、邪道の相撲」にみる日本人の美醜感覚

まもなく大相撲名古屋場所が始まる。紙面の片隅に小さく出ていたの気づかなかった人もいようが、民進党の野田佳彦前首相は4日、参院選の応援演説で横綱白鵬関の相撲の取り口を例に挙げて安倍政権を非難したとして、党関係者を介して白鵬関に謝罪文を出した、という。

6月23日の名古屋市での街頭演説で、安倍晋三首相が過去の国政選挙でアベノミクス推進を訴え、与党が勝利した後に特定秘密保護法や安全保障関連法を成立させたと指摘。こう付け加えた。「白鵬の取り口に似ている。左手で張り手、右からひじ打ちを顔面に入れる。白鵬は覇道、邪道の相撲になっている。安倍政権も覇道、邪道、外道の政治だ」。

ブログ子は謝らなくてもよかったと思う。白鵬は69連勝した27代横綱・双葉山を尊敬していて、なにかにつけ「心技体」を身に着けたいと殊勝なことを言うのだが、野田元首相がいうように、日馬富士をかわしたり、かちあげて大きなブーイングを受けることが多い。成績から言うと一代親方を認めてもいいが、何かというと「品格」がないことが取り上げられ、やはり外国人力士に相撲道を説くのは無理かと思わせられ、日本人をがっかりさせている。

先ごろ数学者の藤原正彦氏が週刊新潮に連載しているコラム「管見妄語」でうまい表現をしていたので紹介する。
コラムではまず、添都知事が辞任したことに触れついで白鵬のことに触れている。

・・・(舛添要一都知事は)法律の世界に育ったことが仇となった。頭のよいはずの彼なのに、日本人の善悪が、合法か不法かでなく美醜、すなわちきれいか汚いかで決まることを知らなかった。嘘をつく、強欲、ずる賢い、卑怯、信頼を裏切る、利己的、無慈悲、さもしい、あさましい、ふてぶてしい、あつかましい、えげつない、せこい……はすべて汚いのだ。逆に、公のためにつくす、正直、誠実、勇気、献身、忍耐強い、勤勉、弱者への思いやり、いさぎよい……は美しい。日本人のこの道徳基準に無頓着なまま、不法でなければ万事オーケーとばかりに自らを正当化しようとした。

これは横綱自鵬の「かち上げ」にも当てはまる。近年の彼は、立合いで左から相手の顔を張り、顔が傾いたところを右肘でかち上げる、という技を多用する。この荒技により、今年になってからだけでも、栃煌山、豪栄道、勢などが立つと同時に意識を失い敗れた。この肘打ちはボクシングでは危険技として禁じられているが、相撲では禁じ手でない。だから白鵬はこれ一発で相手を沈めた時は、「立合いがうまく行った」と得意満面だ。

また彼は、立合いで「変わる」、すなわち相手を正面で受け止めず左右に体をかわすこともよくするようになった。「かち上げ」や「変わる」たびに観客からブーイングが出る。白鵬にとって、規則で認められた技で勝ってとやかく言われるのは腑に落ちないはずだ。「かち上げ」や「変わる」のが評判悪いのは、横綱としての品格に欠けた技、すなわち汚い技だからだ。大相撲の頂点に立つ横綱は正々堂々と相手を受け美しい技で勝って欲しい、との思いがファンにはある。日本人が善悪の判断を、美醜で決めていることが白鵬には理解できないのだ。

日本人はこれがあるから、法律などほとんどない時代でも治安は見事に保たれていた。戦国時代末期に来日したフランシスコ・ザビエルも日本人の道徳の高さに瞳目したし、明治初年に来日した米人モースは「日本人は道徳や品性を生まれなからに身につけているようだ」と感嘆した。無論生まれつきでなく、誰もが幼い頃から「汚いことはするな」と諭され育てられているからそう見えるのだ。今も日本人の道徳の高さは世界でも飛び抜けている。合法か不法かに頼る諸外国は、何世紀も遅れているように私には見える。

不法なことをしていない都知事を国民の美醜感覚が辞任に追いこんだ今回の事件は、日本文化の真髄の表れであり、世界へのよいメッセージでもあった。

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