安倍晋三首相が27日(日本時間28日)に米ハワイ・真珠湾で行った演説は格調高いもので感銘を受けた。
昭和20年8月15日、6歳だったブログ子は疎開先の山形・米沢の母の実家の庭先で織物工場の従業員の後ろのほうで玉音放送を聞いた。意味は分からなかったが、泣いている番頭さんをみて大変なことだとは思った。この日、いよいよ戦争が激しくなったので午前中から人夫を動員して庭の築山の松の大木の下に防空壕を掘り始めた。午後からはその埋め戻し作業だった。
敵国だった米国が戦後いち早く援助の手を差し伸べたくだりでは、大阪で過ごした食糧難の時代でも「まずい」という印象しかなかった脱脂粉乳の給食を思い出した。高校の親友はフルブライト奨学金でアメリカに留学した。アメリカの恩恵は身近だった。
その後アメリカも日本にいいことばかりしてくれたのではないことも知った。GHQが1週間で書き上げ押し付けた日本国憲法やゼロ戦への恐怖から日本人が長らく航空機製造はじめ空を飛ぶことをを妨害してきた負の遺産もある。それとて敗戦というものの代償と思い、我慢もしよう、そう思った。
安倍首相は「寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ必要としています」と演説でこう述べるなど、「寛容」という表現を7回用いた。5月の被爆地・広島に続いて12月にオバマ米大統領と並んで真珠湾で戦没者の慰霊を行ったことで、米政府との間では歴史問題をめぐる不毛な対立は今後、なくなるはずだ。
「これで戦後は完全に終わりになるかな。いつまでも、私の次の首相まで戦後を引きずる必要はない」。真珠湾訪問を発表した5日夜には、周囲にこう語っていた(産経、阿比留記者)そうだ。
米国との関係でいえば、戦争はこれで「歴史の領域」に入った。同時にこれは75年後の今なお歴史認識という外交カードを切り続ける中国と韓国への訴えでもある。だが現実はどうか。これしかないと、歴史カードを繰り出す相手方の事情を考慮してもこの両国には「寛容と和解」という言葉は通じそうにない。
欧米メディアが「両首脳は詩的で感動的な演説」と評価する中で、中国・華春瑩報道官は「パフォーマンスばかりでは和解実現は難しい、真珠湾を訪問しただけで第二次世界大戦の歴史を全て清算できると思っているなら独りよがりだ」といい、複数の韓国メディアが「戦争に対する謝罪や反省に関する言及はなかった」と批判していて、「次は韓国を訪問し、慰安婦被害者に謝罪するべきだった」と相変わらずの姑息さ丸出しだ。
中国の王毅外相と華春瑩報道官はあきれた論調をいつも展開する。王毅外相など己の中国がさんざ弾圧してきた、新疆ウイグル自治区などで頻発する暴力事件について「中国はテロの被害者だ。政治、外交、軍事などの手段で根絶する」といけしゃあしゃあと強弁する。その口先も乾かぬうち、28日午後、同自治区ホータン地区カラカシュ県で4人の「暴徒」が車で共産党県委員会の関係施設に突入し、手製の爆発物を起爆させ、1人が死亡、3人が軽傷を負った。襲撃した4人はその場で射殺された。(中国新疆ウイグル自治区の政府系サイト「天山網」)
上が上なら下も「右に倣え」である。24日夜、北海道・新千歳空港の国際線ターミナルで大雪による欠航に腹を立てた中国人乗客らが騒ぎを起こしたことについて、在日中国大使館(東京)の張梅報道官(この人も女性)は27日、「日本メディアはあまりにもあおり過ぎではないか。このような小さな一件が、中日両国の国民感情に影響するとは思えない」と指摘した。
ならばその時の動画を見せよう。女性が多かったが集団ヒステリーのようにわめきたて、空港職員につかみかかり蹴とばしているのはみな中国人である。この夜空港で夜明かしを余儀なくされた人は1万1600人だが、「自然現象には逆らえない」と誰一人文句も言わなかった。文句をいって騒ぎ立てたのは100人ほどの中国人だけである。この「小さな一件」の民度をみて、王毅、華春瑩両氏の顔と並べてみると、「寛容と和解」など夢のまた夢ではある。韓国については論評にも値しない。自滅を待つのみである。
「今日をもって、『パールハーバー』は和解と同盟の記念日になりました」と最後の首脳会談前に安倍首相はこう語りかけ、オバマ氏に手を差し伸べた。大統領も「その通り」と答え、首相の手を握り返した。
戦後が終わったのである。