週刊新潮を読んでいて面白い記事を見つけた。年末・年始の新聞社説の比較論考である。以前このブログで「成り注」原稿、つまり、「成り行きが注目される」と結論付ける記者をこっぴどく叱りつけた話を書いた。かねてから「屁の突っ張りにもならない」との定評がある新聞社説を比較論考したもので、筆者はニーチェの研究で知られる哲学者、適菜収(てきな・おさむ)氏。ブログ子は朝日。毎日、日経を読まなくなって久しい。したがって、こんなろくでもない社説を書いていたことも知らなかった。共感する方も多いと思うので、少し長いが採録する。最後のオチには笑った。
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毒にも薬にもならない「新聞社説」は害悪だ 哲学者 適菜収
新聞を読めば頭がよくなるというのは、都市伝説というより悪質なデマである。主要全国紙の朝刊発行部数だけでも2300万部に上ることからもそれは明らかだ。不特定多数の人間に新聞を購読させるためには、下のレベルに合せるしかない。クオリティーを高めれば、ついていけない読者は離れていく。新聞がくだらないのは構造的な問題だ。
もっとも新聞批判もワンパターンーなものが多い。「新聞は読むところがない」「社説は毒にも薬にもならない」と揶揄すること自体が野暮であり、マクドナルドにまずいとケチをつけても仕方がないのと同じ。
ただし、ここで注意が必要だ。本当に社説は「毒にも薬にもならない」のか?。 昨年末の四大紙、朝日、毎日、読売、日経の社説を眺めた限り、そうとは思えない。社説は「毒にしかならない」のである。
社説の構造はどれも同じだ。テーマに関する複数の論点を並べ、きちんと目が行き届いていることをアピールした後、社としての凡庸な統一見解を述べる。さらにこれをいくつかのパターンに分類することができる。
一番多いのは「だからどうした系」だ
「安全性や効能が確認された薬や治療方法は、みんながその恩恵を受けられる。そんな日本の公的医療保険の良さを残しながら、制度を維持していく方策に知恵を絞らねばならない」(薬価見直し納得できる仕組みに「朝日」12月5日)などと当たり前のことを滔々と述べる。
「子どもの実態を最もよくつかんでいるのは、ほかならぬ現場である。(中略)学校そして教員は、目の前の子どもたちに向きあい、それを踏まえた教育を行ってほしい」(新指導要領現場の不安にこたえよ「朝日」12月25日)
「利用する側も、ネットには玉石混交の情報があふれているとの認識を持つことが、改めて求められる」(情報サイト公共性をどう守るか「朝日」12月H日)
「年末に相次ぐ凶行は、改めてテロの脅威と背中合わせにある世界の厳しい現実を物語る。どんな背景であれ、暴力は断じて容認できない」(相次ぐテロ国際結束の再構築を「朝日」12月22日)
いずれも文章化する意味がわからない。
「北朝鮮の核開発の手を止めさせるためには、日米韓を中心とした関係国が、これまで続けた放置の状態を改め、何らかの関与の行動に出るほかない」」と奇妙な日本語で主張する朝日の社説のオチは「積もり積もった不信感を解くのは決して容易ではないだろうが、すべての関係国が努力を尽くす以外、道は開けない」(北朝鮮核問題 現状打破へ対話模索を 12月19日)。小学生の投書じゃあるまいし、」いい加減にしろよ。
断トツにアホだったのは、「東日本で地震『怖さ』思い出す契機に」(「朝日」11月23日)
「一つ一つの災害に謙虚に学び、個人も企業も社会も着実に対策を講じる。今日にも起きるかもしれない次の災害に備えるには、それしかない」
そんなこと言われても困るよね
「無責任系」に「放火系」
念のため言っておくと、記者の能力が低いのではない。逆だ。大手新聞社に勤めているのは二流のエリー卜であり、平均的日本人より国語力は高い。だからこそビジネスと割り切り、恥知らずな文章を日々量産できるのである。
「今後も見守っていくべきだ」などと結論を宙に投げ出す「無責任系」も多い。だったら。最初から黙って見守っていればいいのだが、読者を一緒に問題を見守っている気分に浸らせることができる。
これは「NHKに何を求めるかを、もっと国民レベルで考えなければならない」(NHK受信料本格的な値下げ議論を「毎日」11月27日)、「将来にわたる『国のかたち』を決めるという自覚を私たちも含め持たねばなるまい」(退位議論の集約に知恵を絞れ「日経」12月2日)といったふうに使う。
似ているのが、「したい系」。「カストロ氏の死を機に、理想と挫折が交錯した20世紀の歴史を振り返り、改めて世界の未来を考えたい」(カストロ氏死去、平等社会の夢、今なお「朝日」11月27日)。「カレーを食いたい」と言っているのと同じで、勝手に食ってろという話。
「放火系」は、新聞社が騒ぎにしたいものを「注目が集まっている」「今後問題になりそうだ」と煽るタイプ。 一番笑ったのは、「PKO新任務は安全と両立を」(「日経」11月17日)。
「12月で日本の国連加盟から60年となり、PKO参加も来年で25年の節目だ。危険をいかに最小化しつつ意義ある国際貢献をするかについて、与野党で改めて議論を深めるべき時期にきている」
25年も経っているのに「議論を深める時期」とはこれ如何に。要するに彼らは四半世紀の間この類のフレーズを使いまわしてきたのだ。こうしたものが日々世間にばら撒かれることで、「空気」や「気分」が発生する。居酒屋では仕事帰りのサラリーマンが、朝読んだ社説の内容を繰り返す結果どうなるか。究極の思考停止と無責任社会が完成するのである。こうした問題にわれわれはどのように向き合えばいいのか。今後とも見守っていきたい。