
上皇后美智子さまが昭和、平成の時代に詠まれ、未発表だった466首を収めた歌集「ゆふすげ」の発行部数が10万部を突破したと、版元の岩波書店が2月14日発表した。 岩波書店によると、1月15日の刊行直後から大きな反響が寄せられ、短期間で異例の発行部数となった。このさきベストセラーになるだろう。
歌集は1968~2018年の作を収録。阪神大震災や東日本大震災の被災地に思いを寄せた歌や、家族への気持ちを表した歌など、悲しみや喜び、共感などが繊細に豊かに詠まれている。
さもありなん、と思うと同時に、俳句などと比べて嗜む人がはるかに少ないにもかかわらず、 美智子上皇后さまの和歌にこれほど惹きつけられる人がいたことに、日本の文化水準の高さをみた思いだ。
《ひとところ狭霧(さぎり)流るる静けさに夕すげは梅雨の季(とき)を咲きつぐ》(昭和50年)
《母の亡く父病むゆふべ共にありし日のごと黄すげの花は咲き満つ》(平成9年)

亡き母親と、病に伏した父親を思い詠まれた御歌(みうた)には、かつての両親との記憶を呼び起こす花としてキスゲが登場する。歌集の本体表紙と帯には、親交の深かった画家の故・安野光雅さんが描いたユウスゲがあしらわれた
《幾度(いくたび)も御手(おんて)に触るれば頷きてこの夜は御所に御寝(ぎょしん)し給ふ》(平成15年)
前立腺がんの手術で入院し、一時退院された上皇さまを静かに見守られているときの作だろう。寄り添い、支え合われるご夫妻の日常が浮かぶ。
《汝(なれ)を子と持ちたる幸(さち)を胸深く今日君が手にゆだねむとする》(平成17年)
「清子内親王の結婚を祝ふ」と添えられたお歌には、娘を送り出す一人の母親としての深い感慨がにじむ。
《被災地に手向(たむ)くと摘みしかの日より水仙の香は悲しみを呼ぶ》(平成9年)
平成7年、阪神大震災で被災した神戸市長田区の菅原市場を上皇さまとともに訪れ、皇居で摘んだ水仙を供えられた上皇后さま。その2年後に詠まれたお歌からは、「震災を『決して忘れてはならない』という強いメッセージが伝わってくる。他にも世界の紛争や戦争、北朝鮮による拉致被害者を詠んだお歌も収録されているようだ。皇室に連綿として流れるものは「祈り」である。
歌を詠むことは、古来、皇室の伝統である。一般家庭から皇室に入った上皇后は、才能もあったであろうが、現在の歌道を極めるまでは相当の研鑚を積れたことだろう。祈りと言い、歌道といい、民間から皇室に入られた美智子さまが、確(しか)とこの伝統を受け継がれているのだ。
《まなこ閉(と)ざしひたすら楽したのし君のリンゴ食(は)みいます音(おと)を聞きつつ》(昭和51年)
皇太子時代の上皇さまとのひとときを、のびやかにうたった一首だ。美智子さまの歌が素晴らしいのは、自然詠に秀でていること、古語である大和言葉を駆使されることなどいろいろあるが、最大のものは己が「五感」で表現することだと、ブログ子は思っている。例えばこの一首だ。
《いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし》
終戦六十年に当たる平成17年6月、両陛下はサイパン島に慰霊の旅に出られた。絶望的な戦況の中でアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、島の果てのバンザイクリフ( Banzai Cliff)から80㍍下の海に身を投じた女性たちのことを思われてお詠みになった。ご自分で断崖に立たれた足裏の皮膚感覚で当時の女性たちへ思いを馳せる、素晴らしい感性で、当時身を投げる姿を映画で知っているブログ子は涙が噴き出た覚えがある。
《かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこいきけむ》
お二人がテニスで出会った軽井沢。その追分の地に、今も「分去れの碑」がある。京都へ向かう中山道と、越後へ通じる北国街道の分岐点に旅人同士が、ここで別れを惜しみ、涙とともに袂[たもとを分けて旅を続けたといわれる。この碑に立ったとき、悩んだ末に民間から皇室に入る道を選んだ時の心境を詠まれた。
昭和34年4月10日、ご成婚の馬車パレードのテレビ中継を桜満開の山形県米沢市の母の実家で見た。北大の入学式に向かう途中だった。戦後50年が過ぎた年のお歌だが、その「取りし片への道」のおかげで素晴らしい御歌に接することができる。
間違いなく戦後、いや近代最高の歌人だと思う。