ブルーインパルスの名パイロット死す

G・Wを新聞もパソコンもない八ケ岳で過ごし下山して最初に目に飛び込んだのは、フランスと韓国の大統領選でもなく、淡野徹さん死去のニュースだった。

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東京五輪で上空に五輪マーク描く 航空自衛隊「ブルーインパルス」操縦、淡野徹さん死去

ブルーインパルスが描いた五輪。左から2つ目の黄色が淡野さん担当

 昭和39年の東京五輪開会セレモニーで、会場上空に戦闘機で五輪マークのスモーク(煙)を描いた航空自衛隊のアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」メンバーの淡野徹(だんの・とおる)氏が30日、死去した。80歳だった。

 通夜は4日午後6時、葬儀・告別式は5日午前10時、東京都府中市多磨町2の1の1、日華斎場で。喪主は長男、務(つとむ)さん。

 台湾台北市出身。高校卒業後、航空自衛隊の操縦学生の第1期生となった。優れた技量が認められ、ブルーインパルスに参加。東京五輪では5機のF86のうち黄色のスモークを吐く機体を操縦した。昭和45年、1等空尉で退官後も民間機のパイロットとして活躍した。(産経新聞)

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淡野徹氏(2015年撮影)

ブログ子は永年交友を続けていて、最近は賀状のやり取りだけになっていたが、飛行機の話題やニュースを見ると必ず思い出す人だった。パイロットとして知り合ったのではなく、氏の兄君が京王プラザホテルの幹部で愚妻ともども私邸に招かれたとき、紹介された。新宿で最初の高層ビルとして建築中から取材していたのと、勤務する新聞の忘年会をホテル最上階で開いたのが、「当ホテル最初のお客さま」と言われて家族ぐるみの交際をしてきた。

そのとき、既にブルーインパルスは卒業されていて、JALでジャンボのパイロットをしていた。貨物機にもスチュワーデスが乗っていて持ってこさせたコーヒーを脇に、操縦桿の上に足をのせて飛んでいるという「社外秘」の話を聞いた。まあ、それほどオートパイロットが発達しているという話の筋の中の話なのだが。

「機長なにをするんですか」で有名になった羽田沖ジャンボ機不時着水事故のときは指導教官のような立場だった。もう時効だろうから書くが、入院中の片桐機長の部屋の中の様子を詳しく聞いた。精神疾患に起因することは、いろんな行動で明らかで、このため自分の新聞だけは早くから、再発防止策にカウンセラーの導入の必要性を一貫して主張できた。

ブログ子が編集責任者だったころ、産経新聞の正月元旦号トップ記事で星空の中を飛ぶ操縦席の話で飾っていただいた。サンテグジュペリの「星の王子さま」のようなコクピットの世界を今でも思いすことができる。

95年夫人に先立たれ、97年に再婚のハガキをいただいた。お相手がスッチーと聞いて、氏らしく地上でも機上でも、もてもての人生だったと思った。

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