スーチーはなぜロヒンギャに冷たいのか

ロヒンギャ問題ではローマ法王もスーチー女史の説得に乗り出した。

ミャンマーのムスリム(イスラム教徒)系少数派ロヒンギャ迫害はひどいものだ。国際医療NGO「国境なき医師団(MSF)」の調べでは今年8月25日以降、1カ月で少なくとも6700人が殺害されたと推定されると指摘している。ミャンマーの公式発表では400人だ。明らかに嘘をついている。バングラデシュに逃れたロヒンギャはいまや推定約52万人に達している。

なのに、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相は「ミャンマー国民でもないロヒンギャを追い出して何が悪い」と平然という。彼女が受賞したノーベル平和賞を剥奪する動きも活発になって来た。英オックスフォード市議会は、97年に「民衆化への長い苦闘」をたたえて授与した称号「オックスフォードの自由」を永久に剥奪することを正式に決定したし、英BBC放送もロヒンギャ問題でスー・チー氏が、「暴力を見て見ぬふりをしている」と非難している。

スー・チー女史となにより関係が深いイギリスで非難行動が強いというのは歴史の皮肉だ。というのも、彼女は1967年にオックスフォード大を卒業し、在学中に夫の故マイケル・アリス氏(99年に英国で死去)と知り合い家庭を築いたのだから。

日本人にはミャンマーというよりビルマという旧国名のほうがなじみだが、その独立には日本が深く関わってきた。日本敗戦後も現地にとどまり独立運動を支援した日本軍兵士も数多い。ブログ子もそのうちの一人で伊豆で果樹園経営を手広く行っていた人にキーウイ栽培法を教えてもらったことがあるが、彼の許にはビルマ大使が赴任するたびに挨拶に訪れてきていたくらいである。

ロヒンギャ問題を考えるとき英国の悪行に触れないわけにはいかない。英国はビルマ全土を植民地にすると、インド人や華僑を入れ、山岳民族を山から下し、敬虔な仏教徒ビルマ人の国を多民族多宗教国家に作り変えた。そのときはるか西の地に暮らしていたイスラム教徒、ロヒンギャも「移植」したのである。

現在エルサレムをイスラエルの首都として認めるとトランプが宣言したと大騒ぎしている。もとはといえばユダヤとアラブに対するイギリスの「二枚舌」「三枚舌」外交が招いた災いだが、ビルマでもイギリスのでたらめな植民地政策が今に至るも災いをもたらしているのである。

日本軍がビルマに入ったとき、英印軍は逃げた後だった。日本軍はこの国の軍隊をビルマ人の軍隊に作り直し、アウンサンと彼の仲間ネ・ウインにその指導を任せた。スーチー女史の父親、アウンサンは日本軍に同行するインド人が嫌いだった。彼は英軍将校とこっそり会って「ビルマの独立承認を条件に日本軍を裏切る約束をした」(ルイス・アレン『日本軍が銃をおいた日』)。そして昭和20年3月、彼はそれを実行した。戦後、戻ってきた英国はビルマの独立が避けられないことを知ると、裏切り癖のあるアウンサンを暗殺して去っていった。

後を継いだのは英国が嫌いだったアウンサンの盟友ネ・ウインで、英国の求めた大英連邦入りをきっぱり拒否し、道路交通規則も英国流の左側通行を廃止した。英語で行われていた高等教育も自国語授業に切り替えた。

反英の塊、ネ・ウィンを切り崩すために英国が使ったのがアウンサンの忘れ形見スーチー女史である。彼女は子供のとき旧ビルマ総督に引き取られ、英国で30年を過ごした。英国人の夫との間に二人の子もいた。 「英国人スーチー」は母国に戻るや野蛮な故国の民主化に燃えた。英国も手を尽くしてノーベル平和賞やサハロフ賞を彼女に与えた。やがて彼女は国家顧問に就任した。

事実上の国家元首になって、また英国人の夫も亡くなって、はじめて英国がこの国にもたらした災いの大きさに気づいたのではないか。自国に巣食う異民族、ロヒンギャが許せなくなったのだ。ロヒンギャが警察を襲ったのを機に彼女は公言し始めた。「国の主権を無視する存在は許せない。国籍も持たないものを排除して何か悪い」。

ロヒンギャ迫害がいいわけないが、ビルマ史を知って、スーチー女史がはじめて愛国心に目覚めた結果だと思えば、少し見方が変わるのではないか。

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