ブログ子は新聞記者時代多くの政治原稿を書いてきた。佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったとき私邸の応接間にいて「なんでこの人が・・・」と首を傾げていた。中曽根康弘が組閣のときブログ子の入閣予想は60%程度の確率だったが読売新聞は100%の確度で仰天した。調べたら、中曽根のそばで組閣名簿をさらさらと書いていたのは渡辺恒雄主筆(いまだにこの肩書を外さない)だった。二人は互いに「盟友」「唯一の友人」という仲で、おかげで何度泣かされたか。
歴代首相を見てきた中で「史上最低の首相」だと思ったのは、宇野宗佑だった。リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登が退陣したあと、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、サミットが近かったこともあり、当時外相であった宇野がダークホースとして登場した。
しかし就任3日後に女性スキャンダルが発覚する。神楽坂の芸者に「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)、いわゆる「指3本事件」である。愛人となった後、首相就任の4年前に別れるまでの面倒見の悪さから女に暴露された。
芸者に「このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、マスコミにリークした」と言われたくらいだから、確かに「最低の首相」にふさわしい人物であった。そのため、わずか69日間の短命内閣であった。
ブログ子の当時の勝手なランク付けで、これで決まりかと思ったら、民主党政権になってつぎつぎ「記録」は書き換えられた。東日本大震災にあたって現場にしゃしゃり出てきて「何で俺が来たと思っているのだ」と原発作業員に怒声をあびせ混乱させた菅直人、ルーピー・鳩山由紀夫に至っては、総理を追われたあともわざわざ韓国に出かけては慰安婦像の前で土下座してみせるバカ丸出しである。民主党政権はわずか3年の間に「最低の首相」を2人も輩出してくれたのだから驚いた。
ところが12月23日に外務省が一般公開した外交文書を見て、「やっぱり宇野宗佑が最低」と思わせられた。政権発足直後の1989年6月4日、中国政府が民主化を求める学生らを武力弾圧した天安門事件が起きた。日本側の極秘文書には事件の犠牲者数について、中共政府の公式発表をはるかに上回る「1000人以上」という各国大使館の報告が散見される。
当然のことに、西側諸国が「制裁措置等を共同して採ること」に足並みを揃えていた中で、宇野はただ一人「我々とは政治社会体制及び価値観を異にする中国の国内問題」と率先して反対していたのだ。 「国内問題」は今でも中国政府が人権侵害を正当化する際の常套句である。なんという世界観の貧しさか。
宇野がまもなく訪れる仏でのアルシュ・サミットの説明に訪れた外務省幹部に「中国を国際的孤立に追いやるのは不適当」と発言。宣言に関し「EC(欧州共同体)・米と日本は違う。これが文章や表現上、にじみ出るようにしたい」とまで述べていた。為に、サミットでは中国を非難する宣言が採択されたものの、共同制裁は見送られた。
他の「最低」首相たちは確かに愚かだった。しかし宇野宗佑の「最低」は中国が今、世界中に撒き散らしている覇権主義、一帯一路、チベット・ウイグル民族迫害、中華思想、はては武漢の新型コロナ発生の隠蔽にいたるまで、あらゆる害毒のもとになっている独裁政治を率先して助けた特段の「愚行」である。