林家三平「笑点」クビの当然

日本テレビ系の「笑点」で大喜利のレギュラーメンバーを務めていた落語家の林家三平(51)が、26日の放送で降板した。後任は来年1月1日の放送で発表するという。

やっぱりなあ、というのがブログ子の感想である。妙な縁で「笑点」とは50年ほど前、日本テレビが麹町にあった頃から付き合いがあった。それは毎年発売される「笑点カレンダー」がはじまりだった。

当時はソ連の時代だったが、ブログ子の新聞社のモスクワ支局から毎年10月頃になると、カレンダーとボールペンを大量に送ってほしいという依頼が来る。ちょっとした取材の謝礼に使って喜ばれるからで、ホントはトイレットペーパーも欲しいのだがかさばってとても郵送に耐えられないのでその二つで良いという。

ソ連のトイレットペーパーは「まるで画用紙で尻をこそぎ落とすよう」と言われていた。筆記具は鉛筆が主流で良質のボールペンなど皆無だった。カレンダーは日ソで祭日も違うし不便だろうと言うと、粗雑な印刷技術で日本の大昔の絵本のようなものしかないそうで美しい日本のカレンダーは大喜びされるという。特に日本の山や海の風景もの、中でもJALや美しい和服の美女ものが人気だがカレンダーなら何でも良いと言われた。

日本でカレンダー配布が始まるのが11月末で、大急ぎで集めるのだが、そのとき大量に協力してくれたのが日本テレビの「笑点カレンダー」だった。モスクワに着くのはぎりぎり年内、時には新年に入ることもあるが、支局に着いた時にはカレンダーもボールペンも三分の一ほどになっていた。途中で税関や郵便局員に抜き取られるからである。ソ連の崩壊も近い、と予感させた。そういえば今年2021年はソ連崩壊から30年だ。

そんなわけで「笑点」のディレクターや広報と付き合いがあり、毎週観ていたものだが数年前からブログ子も家族も誰も観なくなった。三平があまりにも下手くそで観てられなくなった。記事によると5年前の平成28年5月からメンバーに加わったとあるからその直後だ。

NHKの「とんち教室」(1949年1月3日から1968年3月28日にかけて19年間放送)を知っているが、石黒敬七(柔道家)、長崎抜天(漫画家)、玉川一郎(ユーモア作家)、春風亭柳橋 (6代目)、桂三木助 (3代目)、渋沢秀雄(渋沢栄一の息子。東宝元会長)など分野が違うのに揃ってトンチの才を競ったものである。そのトンチの才が三平にはない。

更に加えると、木久扇も「馬鹿キャラ」だけで番組をこなしているが一番のトンチではさっぱりである。「笑点」の視聴率もジリ貧というが、三平と木久扇が番組をだめにしていると言っても過言ではない。正月になると女子アナや女優・タレントの大喜利が恒例だが、これも面白くないというか、スイッチを切るレベルである。早くやめた方がよい。

「多くのバラエティー番組では台本がしっかり書かれているが、笑点では構成作家は答えを用意してません。解答者の落語家が考えます。三平さんの答えがイマイチなのは、視聴者にも指摘されていましたが、答えを出す量がそもそも少なかった。本人も先輩方とスキルが違うことを自覚していましたから、今回の降板になってしまった」(夕刊フジのコメンテーター)

12月19日の放送で「笑点から重大な発表があります」と春風亭昇太から話を振られた林家三平は「今年をもって一旦焦点から離れる決意をしました。この5年半、一度も座布団10枚取ったことがない。座布団10枚獲得するためにも勉強しなおして、芸の幅を広げて戻ってくる」と語ったが、トンチというものは勉強すれば磨かれるものでもなかろう。持って生まれた才能としか言いようがない。そうした意味で落語家には世襲というものが似合わないのだと思う。

余談になるが、ブログ子は落語を3つのパターンに分けている。一番上が「噺家」で古典落語を専らとする。二番目が「落語家」で新作もこなす。三番目が「落語屋」で少し落語を齧っただけでほとんどタレント活動を専らとする。

今年、人間国宝、柳屋小三治が亡くなったが「私は噺家です」と自らを定義していた。立川談志は「俺は落語家であって噺家ではない」と自認していた。

かれこれ30年ほど前だが、この小三治師匠と永六輔を私のクルマに乗せて富山の宇奈月温泉から同じ富山・城端(じょうはな)市まで運んだことがある。同僚の記者が新聞社を辞めて入婿としてこの地の寺の坊主になった。現役時代親しかった永六輔が「昔は落語はこうしたお寺でやっていたもんだ」と、小三治と組んで毎年、農閑期に「野休み落語会」を開いていたのだが、招かれたブログ子が頼まれて一時間半ほどの旅を一緒にした。

後部座席の二人の話の面白いこと。ブログ子の大好きな志ん生のなめくじ話から当代の噺家の裏話、芸談・・・再現できないのが残念だが、一部は彼の著書『芸人その世界』にあるが、あっという間の時間で、城端市から東京に戻る間も思い出し笑いしていたものだ。

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