東日本大震災で被災した岩手県の三陸鉄道(三鉄)は6日、最後まで不通となっていた北リアス線小本-田野畑間(10・5キロ)の運行を再開した。5日に開通した南リアス線と合わせた全107・6キロが1123日目に完全復旧し、開業30周年で再出発を果たした。
久慈市の久慈駅を6日早朝に発車した3両編成の上り一番列車には、鉄道ファンら50人以上が乗車した。遠くから駆けつけた「撮り鉄」「乗り鉄」も多かった。またNHKの連続ドラマ「あまちゃん」で袖ケ浜駅」として登場した堀内駅(普代村)付近などでは、住民が大漁旗を振って歓迎した。この日の記念列車では、古民家風の内装とした新型お座敷車両がお目見えした。住民の喜びぶりがひしひしと伝わってくる。
三陸鉄道は岩手県や沿岸部の市町村などが出資する第三セクター鉄道で、本社は岩手県宮古市。旧国鉄の赤字路線を転換、新たに整備した区間を加えて昭和59年4月1日に開業した。「三鉄」の愛称で親しまれてきたが、東日本大震災で線路や駅など317カ所が被害を受けた。枕木が宙に浮いている区間も多く、再起は不能とまで言われた。
三陸鉄道の望月正彦社長は「数字だけを考えたら、南リアス線を含む全線復旧は無理だった」。田老駅付近のがれき撤去のため、自衛隊の出動要請を願い出たら、自衛隊は素早く対応して撤去、地元消防団の尽力もあり10日後には一部だが運転再開にこぎつけた。経営努力もあった。「早期に着工することで資材高騰の影響を免れた。がれき撤去は地元の市町村がやってくれた」(ため、復旧費は92億円弱と当初計画より15%安く済んだ。何より大きいのは資金面で国の全面協力があったことだ。三陸鉄道が復興のシンボルであること理解して採算を度外視して支えた。こうして3年で復旧したのだ。
全線開通と言っても地図を見ると南北のリアス線の間に釜石-宮古間はJR山田線がある。今も運休中だが復旧の目処が立っていない。何故か。JR東日本が黒字経営なので国の支援を受けられないのだ。JR東日本は最近になってこの区間の運行を三陸鉄道へ移管する再建策を地元に提案した。そうなるとこの路線の赤字体質はさらに深まる。三鉄の利用客は開業初年度の268万人から年々減少、2013年度は50万人にとどまっている。採算だけを考えたら全国で多くの赤字路線が廃線に追い込まれたのと同じ道をたどるほかない。
ブログ子は学生時代日本縦断旅行を仲間と計画、スクーターで三陸地方に入った。海岸線を南下するつもりだったが、当時は岩手の沿岸部は「日本のチベット」といわれたくらいで人の表情は暗く、三陸にはまともな道がなかった。国道とは名ばかりで大きな石ころだらけで車輪を取られ転倒が絶えない。やむなく内陸部に一旦入って4号線を走り、再度海岸の町に入るほかなかった。三陸鉄道はその後にこの三陸リアス海岸に開通した路線なのである。
明治以降、日本人は鉄道建設に全精力をつぎ込んだ。己が町の発展を鉄道で峠の向こうにつなげることに夢を託した。ブログ子の山小舎の最寄り駅は野辺山で、鉄道の日本最高地点というので記念写真を撮る人が多い。この小海線はIR東日本だが元は小さな私鉄の寄せ集めであった。篤志家が私財をつぎ込んで鉄道を敷設、資金が続かず破産したり、合併を繰り返しながらも佐久から山を超えて鉄路を開いていった。
小海線の終点は中央線の小さな途中駅、小淵沢である。諏訪湖の北を通って製糸業が盛んだった岡谷や少し先の塩尻まで敷く予定だったのが、資金が続かず、途中で急遽最寄りの中央線につないだためだ。こうして多くの人が鉄道に夢を託してきた。鉄路の先には自分や故郷の希望を見たのである。
三陸鉄道もまた然り。鉄道ファンとセンチメンタルな一時の観光客で経営が成り立つほど甘いものではない。東日本大震災の復興を言うならJR山田線に国費をつぎ込んで被災地の「全線開通」を目指して欲しいものだ。鉄道は乗客の他にもう一つ被災地の夢と希望を運んでいるのである。