ロッカールームに残した手紙と心遣い

「ドーハの悲劇」を「ドーハの歓喜」に変えた日本チームの偉業がメディアを賑わせているが、彼らが残したもう一つの「偉業」がある。感激したFIFAは公式Twitterでその写真を掲載したほどだ。しかし日本のメディアではどうしたことかあまり取り上げない。ブログ子が見たところ、朝日の傘下にあるハフポストと産経新聞電子版だけである。もったいないので紹介することにした。

FIFAの公式Twitterには「ドイツに歴史的な勝利をおさめたあと、日本のサポーターはスタジアムのゴミを片付け、サムライブルーはハリーファ国際スタジアムの更衣室をこのようにして後にしました。きれいです。どうもありがとう」とある。

1枚目の写真は試合後のロッカールーム。備品や水がまとめて置かれ、ごみ一つ見当たらない。ツイッターでは「ぴかぴかだ」と表現している。

もう1枚は11個の折り鶴が並べられダンボールの切れ端に日本語とアラビア語で「ありがとう」と書かれたメッセージ。

前回のロシア大会でも、日本代表のロッカールームには感謝のメッセージが書かれた紙が残され、きれいに掃除された写真とともに世界各国から反響が寄せられていた。

地元カタールや金星を挙げたサウジアラビアはじめ欧米のメディアは試合後、ゴミ袋を手にスタンドを掃除している日本のサポーターの姿が紹介され「日本人にはかなわない)と称賛されている。

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ブログ子はW杯イタリア大会(1990)のときオランダの古都マーストリヒトにいた。その前アムステルダムでは知り合いのエアラインKLMの広報部長から「チケットがある。ホテルとウチの航空券を用意するからローマに行かないか」と誘われたが断わった。

W杯が開かれていることも知らなかった。日本で川淵三郎が奮闘してJリーグがスタートしたのは翌年の1991年である。ほとんどの日本人のサッカー知識はブログ子並みではなかったか。

夏場で暑かった。通りを歩いているのは私一人で、スーツを脱いで美しい古都の坂道を汗を拭き拭き上がっていると一軒のパブから歓声が上がった。やがて男が現われて「奢るから一緒にフットボールを見ないか」と誘われた。こんな大事な日に戸外を歩いている酔狂な人間に興味を持ったらしい。オランダ人のほぼ全員は英語を話せる。こちらはカタコトだ。

サッカーと呼ぶ国は「日本」「アメリカ」「カナダ」「オーストラリア」くらいで、イギリスをはじめヨーロッパや南米では「フットボール」である。

対戦相手国はどこか忘れたがパブに入ったときは、オランダが2点リードしていた。だからみな機嫌よく話しかけてきて「日本は世界ランク何位か」などと聞いてくるが答えられなかった。驚いたことにパトロールの警官2人も一緒にパブで騒いでいた。ところがオランダが追い詰められて同点にされた。重苦しい雰囲気になってきた。奢られるのもはばかられる。ここはDutch account(割り勘)にその名を残すお国である、飲んだのはビール1杯だが2,3杯分のドルを置いて、「ごちそうさん」と皆に声をかけて飛び出した。

なんでこの街にいたかというとすぐ近くのハーグにある国際司法裁判所の日本人判事とゴルフをするためであった。それも2日間にわたって。ここは国連の機関ではあるが、ほとんど機能していない。韓国との慰安婦問題で明らかなように相手国の同意がないと裁判は開けない。したがって判事は「暇」(ひま)を持て余すという仕儀で、昼のゴルフ、夜のイタリアンからフレンチとずっと一緒だった。この間、一度もサッカーの話は出なかった。

この判事は3期27年もハーグにいた。その後任は雅子皇后の父、小和田 恆氏である。皇后の父親をいわば名誉職にしておくわけにもいかず現在は3人目の日本人判事がつとめているが、常任理事国の拒否権といい、国際司法裁判所での被告側の相手国の同意といい、国連を無力化している元凶を正さなければ国連は死ぬ。

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