リニア中央新幹線の整備で、静岡県の川勝平太知事が大井川の流量減少などを懸念して県内工区の着工を認めない問題を巡り、大井川流域である島田市の染谷絹代市長、藤枝市の北村洋平市長、牧之原市の杉本基久雄市長が国交省を訪れ、県とJR東海の協議に今後は国が積極的に関与するよう要望した(写真左下)。要望書は関連する10市町の連名。
これまで県や流域10市町などは大井川利水関係協議会を構成しているが、これまではJR東海と協議に当たっては市町側の窓口として県がすべてを代行するとしてきた。川勝知事の「一滴残らず戻せ」という勝手な要求に、JR東海側が打開策として漏出分を上流から戻す案を出したにもかかわらず、いたずらに引き伸ばしを図るばかりの県の態度に、市町側が不信感を募らせており、国の関与を強めることで議論の透明化や加速化を図りたいと
の行動で、県の孤立化が一段と鮮明になった形だ。
もともと、言うことが嘘だらけ、詭弁ばかりの無理筋だったシャイロック知事は次第に追い詰められてきている。前回書いたように、静岡市長にリニア推進派で川勝知事のもとで副知事を勤めた難波喬司氏が当選したことも追い風になりそうだ。
ところで、このブログを読んでいるという数少ない方からメールをもらった。学生時代馬術をやっていたのだが、同じ趣味の方で、どうして静岡に傾注するのか、なにか理由があるのかというものだった。Tさんに答える形で、私と静岡県との関わりを少し説明しておこうと思う。
新聞社で編集局次長をしていた50歳のころ上役の副社長に疎んじられ、3段階ほど降格の静岡支局長に出された。人生至る所晴天あり、を信ずるので喜んで赴任した。
このときの知事は斉藤滋与史氏で参議院から知事に転じて2期目。兄の大昭和製紙会長、齊藤了英はゴッホの「ひまわり」など2点を244億円という途方もない金額で競り落としたものの「死んだら2枚の絵とともに焼いて欲しい」と言ったので顰蹙をかった人物だ。
他の役員が進言して本社に戻ったので、静岡にはわずか1年しか居なかったのだが、知事とは気脈が通じ、月に2回ほどは大昭和が持っているゴルフ場で知事とプレーする仲だった。
斎藤知事の後は石川嘉延知事だが、彼が自治省(当時)の総務部長から静岡県知事選に出ると言って、どこで聞いたかブログ子のところに来て参謀を依頼された。シンボルカラーを黄色で行け、とアドバイスしたら、その通り4期16年を「黄色いネクタイ」で過ごした。
二人の知事の知遇を得て名前は忘れたが「静岡親善大使」「静岡応援隊」のようなものを仰せつかり毎年年の瀬に、芝浦の料亭で懇親会に招かれ進言するようになった。大学で馬術部にいたのだが3年後輩が「静岡県富士山こどもの国」の総合設計者で石川知事のとき開園したという事もあってますます静岡県との縁が深まった。
川勝平太知事は彼が浜松の県立大学教授をしているときに石川嘉延知事が引っ張ってきて引き立てた男である。しかしご存知のようなろくでもないことをするので、知事室に電話して、毎月のように送付されてくる郷土のニュース山盛りの「静岡便り」を以後打ち切ってくれと「絶交」して今に至っている。
静岡県は東西に長い。東海道・山陽新幹線は静岡県内で最多の6つも駅がある。多くは乗客数が4000人ほどと少ないのにだ。静岡は駿河国、遠江国、伊豆国という3つの国に分かれていて県中部、西部、東部では言葉や気質、産業構造が三者三様。
地域の人柄を表す言葉に「駿河乞食・遠州泥棒・伊豆の飢え死に」というのがある。飢饉などが起きたとき、駿河の人はお上に頼って物乞いをし、遠州(遠江)の人は泥棒をしてでも自分の力で食べ物を手に入れる。そして伊豆の人はのんびりし過ぎているのかそのまま餓死してしまうという意味だ。
静岡の一年間、毎夜のように知事と同じ居酒屋「今年竹」やバーをハシゴしたが、長い物には巻かれろの小商人気質が染み付いている土地柄だった。
そんなおとなしいところに、なんの縁もない信州人の男が来て「一滴残らず水を戻せ」とほざいている。そろそろ静岡県人も噴火するときであろう。