つまり、話題性・影響力・売れ行きで「本屋大賞」が「芥川・直木賞」を上回ったのである。こうなった原因は話題作りに腐心するあまり本来の文学性や面白さを追求するという「芥川・直木賞」の源流を文藝春秋社が見失ったためだろう。やたら「女流」を並べてみたり、社会への反抗心を露わにする作家の卵を候補作に入れたり、経歴の変わった人物を入れたり毎回「作為的」にすぎるのではないか。
その点「本屋大賞」の方は日頃本が好きでたまらない、かつまたよく読んでいる本屋の店員諸氏が「他の人にも読ませたい」という一点で推薦しているわけで、訴求力の点でかなり違う。芥川賞などは文章学という面をもっと前面に出し新しい文体とか表現力を審査すべきだろうと思うのだが、どちらのジャンルに入れるべきか定かでないものがみかけられる。
以前は「文章読本」を著した谷崎潤一郎とか伊藤正が審査員に入っていたものだが、大江健三郎などが主なメンバーになった。ノーベル文学賞作家と言ってもあのもってまわった切れ目のない文章を思うとうんざりしてしまう。それが選評を書くのだから簡単な話もまるで左翼文学評である。朝日新聞以外耳を傾けるメディアはいないのではないか。
金田浩一呂という文芸記者と親しくしていた。新喜楽での「芥川・直木賞」選考会には戦後ほぼすべて顔を出しており、文藝春秋の司会者が床の間で居眠りしている男に必ず最後に「金田さんよろしいでしょうか」と声を掛けた名物記者である。遠藤周作や曽野綾子、三浦朱門、阿川弘之といった作家と親しく、毎回候補作を読んでいて選考会前に「金田講評」を聞くのを楽しみにしていたが先年亡くなり、以来新喜楽に興味がなくなった。
そして毎回の話題先行、紙面掲載3日後には忘れ去られるという現状に「文春はいじりすぎだ」との感を深くしていた。今後もメデイアの「本屋大賞」への傾斜は続くと思う。