子どもの入学式が後生大事な時代

埼玉県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。

これに対し、この入学式に来賓として出席した江野幸一県議は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨しており、県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としているが、県教委では、欠席した女性教諭や校長らの処分などは検討していないという。
(埼玉新聞)

この高校では入学式の担任紹介の中で校長が女性教諭の欠席理由を説明、女性教諭は「入学式という大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします」という文章を事前に作成し、当日、別の教諭が生徒らに配ったという。

ネットでは
「本当に怒り心頭です。 教員の責任感や倫理観、モラルとはどうなっているのでしょうか?」
「こんな程度の人格の教員は、生徒を指導する資格など無く、即刻担任を外すべきでだ」
「権利ばかり言う教員はいらない」
「教員は、教育という一番大事な事柄を担っているということを自覚してもらいたい」

と批判する声が殺到した一方で、『Twitter』などでは
「教え子より自分の子が大事なのは当たり前」
「教師を聖職として特別視しすぎている」
と、教諭の行動は問題ないとする意見も多数ある。

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いつから日本の親はかくも己の子どもの入学式や卒業式を大事にするようになったのか。同じ頃(11日)、東京大学の入学式が東京・千代田区の日本武道館で行われ、3158人の新入生の他、多数の保護者が出席した。写真を見ると2、3階席は父兄でいっぱいである。誰も数えていないがみたところ子どもの2倍は優に超えている。

式では、教養学部の石井学部長が研究論文でのコピー&ペーストの問題にふれ、新入生に「自分だけの言葉を鍛えあげてほしい」と述べ、「他者の思考の模倣にならないために、ひたすら本を読むこと」と読書の重要性を訴えたそうだ。まるで幼児に心得を説くあんばいだ。自分でものを考え、書き、本を読まないような輩は学生ではない。

ブログ子が振り返ってみても小、中、高、大の入学式、卒業式に親が来たことは一度もない。両親どちらかがいつも入院していたので毎度枕頭に報告に行くだけという事情や、私立の小中だったので上に行くのは当たり前で親子とも別に嬉しくもなかった。高校の入学式はまた親は病院で、卒業式は入試とかち合う頃なので卒業生自体出席が少なかった。大学は遠く札幌に行ったので、はなから期待しなかった。自分の事情ばかりでなく、周りをみても親の姿はパラパラだった。

近頃「子離れ」できない親が増えたのは、子どもに過大な期待をかけすぎる風潮と関係しているのだろう。自分ができなかったことを子どもに期待するのは土台無理というものなのに、それをわきまえない親が増えた。加えて親も子も、学校、大学さえも幼稚化してきた。

かくいう私も娘二人の入学・卒業式には出なかったが家内はせっせと出席した。孫娘3人の入学式(卒業式はまだない)には誘われなかったので出なかったが、声が掛かれば馳せ参じたであろうから偉そうなことはいえないのだが、少なくともこの教師の前では「仰げば尊し」を歌う気にはなれない。「公」「私」の判断力がはなから逆転していて、愚かさを恬として恥じていない。

毎度書いていることだが教師と言うのは「聖職」である。ブログ子の小学校の先生は黒板に楷書で正方形に字を書いた。お陰で教え子は今も皆楷書で字を書いている。それほど影響力がある。先生には。

立身出世を煽るということなのか、日教組の指導あってか近頃「仰げば尊し」はとんと聞かれなくなった。中でも2番の歌詞は歌われることがないが、こうである。

2. 互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
  別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
  身を立て 名をあげ やよ 励めよ
  今こそ 別れめ いざさらば

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