「。」が怖い若者

何のことかわからない方が多いと思う。ブログ子など「後期高齢者」は国語力の減退とか、日本語の乱れ、などとして馬鹿にしがちだが、若者の一部では、文末の「。」が威圧的だとして、ハラスメント扱いされているという。

ことの発端は2月6日の産経新聞の「文末の句点に恐怖心…若者が感じる『マルハラスメント』 SNS時代の対処法は」という記事である。以下に概要を紹介する。

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LINE(ライン)などSNSで中高年から送信される「承知しました。」など文末に句点がつくことに対し、若者が恐怖心を抱く「マルハラ」が注目されている。若者は文末にある句点が威圧的に感じ、「(相手が)怒っているのではないか」と解釈してしまう傾向にあるという。マルハラとは、「マルハラスメント」の略称。「承知しました。」「はい。」「連絡ください。」など、中高年から送られてくるメッセージの文末に句点がついていることに対し、若者が距離感や冷たさを感じて恐怖心を抱くという。

会社員の23歳女性は「読みやすくするための句点でルールだと理解しているが、区切られてシャットアウトされている印象がある。会話が続けにくい」。千葉県内の大学に通う21歳の女性は「テンションがわかりにくく、リアクションがないので怖い感じがする」と違和感を口にする。

若者のSNS利用に詳しいITジャーナリストで成蹊大客員教授の高橋暁子さんは「中高年世代はガラケー世代で、主にメールを使用していたため文章が長く、読みやすくするために句読点が多くなる傾向にある」とし、「一方で、若者はリアルタイムでのやりとりが当たり前となっており、チャットのようなやり取りを行う。短めの文章で句読点を打つタイミングで送信するため、句点を使用する機会が少ない」と分析する。

さらに、「若者同士の会話では、句点は怒っていることを意味する際にも使用される。そのため、若者は普段あまり見かけない文末の句点に怒っているのではないかと怖さや威圧的に感じているのでは」と指摘する。

メールに長く親しんできた中高年とSNSを駆使する若者との間をめぐり、SNS利用に対する認識の違いが影響していると指摘する。中高年にとっては、仕事などを通じて若者とLINEでやりとりする機会もあるが、ハラスメントとして認識されないためにはどうすればいいのか。高橋さんは「(若者とやり取りをする際は)句点を除いてあげる。代わりに、『!』や笑顔の絵文字を1つ付けるといい」とアドバイスしている。(村田 幸子・東京編集局メディア編成本部デジタル報道部記者)

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 この報道が話題となると、「句読点を多用するのは『おばさん構文』」とネット上で話題になり、多くのメディアで特集された。歌人の俵万智さん(61)も8日、自身の「X」(前ツイッター)を更新。俵さんは、「句点を打つのも、おばさん構文と聞いて…」とこの件に言及。「この一首をそっと置いておきますね~」と、一首を投稿した。

 「優しさにひとつ気がつく ×でなく○で必ず終わる日本語」

「バツ」でなく「マル」で終わるのが日本語だ…と、その優しさを表現した。

以下はブログ子の見解である。

「句読点」という言葉も、「。」「、」のどちらが句点で読点かの区別も今の若者は知らないと思うのだが、明文化されてはいないものの決まり事がある。まず読点の使い方だが「主語が長くなった時」に使うものであり、「意味が変わるタイミングでは読点を使わない」ものである。次に句点についてだが、記事の中でおじさん構文の例として挙げられている、「承知しました。」「はい。」「連絡ください。」という句点は、文法的には不必要である。なぜなら「」(鍵括弧)内の文章の末尾には句点を使わない、というのが決まり事だ。「承知しました」「はい」で充分なのだ。

例外として「」(鍵括弧)内で「。」止めするときが3つある。一つ目は倒置法だ。「すずめの声が、聞こえるよ」と書くときに、ひっくり返して「聞こえるよ、すずめの声が。」と書く時の表記だ。「君はどこに行くのか」を倒置法で書くと「どこに行くのか、君は。」となる。「が」や「は」で終わらせると不自然になるからだ。ついで「吾輩は猫である。」という用言止めのとき、3つ目は「吾輩は猫。」という体言止めの時である。

文法的には間違いなのに、なぜおじさん構文に「。」止めが増えたのか?ブログ子は以前から、「。」止めを多用するのに疑問を抱いていたのでわかるのだが、「犯人」はコピーライターである。

だいぶ前だが、銀座を歩いていて資生堂のショーウィンドー前で「日本の女性は美しい。」というコピーを見かけた。ここは季節の変わり目ごとに取り換えられるのだが、その後のコピーもこの種の「。」止めがほとんどだった。余韻を持たせるためだろうかと思ったりしたものだ。

京都の「そうだ 京都、 行こう。」は今年で30年目。2024年のポスター

コピーライターが一斉に飛びついたのは、デスティネーションキャンペーン「そうだ 京都、 行こう。」の名コピー以来である。ここで使われている句読点は「断定」と「決意」が明確に伝わってくる。デスティネーションキャンペーンというのはJRが昭和50年ごろから和歌山県を最初に始めたもので、ブログ子は当時、日本新聞協会の「レジャー記者会」の幹事で、毎年選ばれる重点キャンペーン地区の道府県に出かけていたが、ほとんどの県のキャッチコピーで「。」止めが流行した。

ということで、「マルハラ」の元凶はコピーライターであるというのがブログ子の考えなのだが、もちろん異論はあるだろう。かつて同じ夕刊フジ編集局で机を並べていた田中規雄編集委員が書いてる「産経抄」によると、という和文にはもともと句読点がなく、新聞でさえ文末が「。」切れで統一されるのは戦後のことだった、という。

そして作家、井上ひさしの『私家版 日本語文法』から引いたプロレスの力道山の手紙を紹介している。

 「其の後御変り御座居ませんか私は御蔭様で元気で毎日練習して居ります故御安心下さい又出発の際色々と御世話に成り厚く御礼申上げます私は来る十七日インデアン人と初試合をやります毎日暑いので海につかりぱなしです。どうぞ皆々様に宜敷くお伝へ下さいお願い致します又お手紙差上げますでは元気でアロハ」

全文は10個の文からなり、途中で用いた記号は「。」が1つという。「句点(マル)も読点(テン)もないのに文意は明瞭」とは井上ひさしの評価である

言葉は時代とともに変化する。昔とは真逆の意味に使われているものに「情けは人の為ならず」がある。本来は「人に情けをかけるとまわりまわって自分にその情けが返ってくるよ」の意味だが、「人に情けをかけるとその人のためにならないよ」の意味だとする人が7割というのが現代である。

「LINEとかコミュニケーションアプリの特徴って連続的にトークがずっと残っているというコミュニケーションの特性がある。こうした連続性を有するコミュニケーションを前提とした媒体に育ってきていると、句点が入ることはバスッとその連続性みたいなものが断たれて、関係が切られたような感じがしたり、これは何か厳しいことをしっかり言われているみたいな、そういう感覚にとらわれるんだと思う」(明星大学大学院・藤井靖教授=ABEMA TIMES)

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