日の丸飛行隊、笠谷幸生の死去に想う

1972年札幌冬季五輪スキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の一員で日本人初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが23日午前7時35分、虚血性心疾患のため札幌市の病院で死去した。80歳。北海道出身。葬儀は近親者で行った。喪主は妻則子(のりこ)さん。後日お別れの会を開く。

◆ ◆ ◆

ブログ子はその時、3本の日の丸がはためく大倉山シャンツエにいた。会場はどよめくうねりのような歓声が波打っていた。この大会ではフィギュアスケートで優勝候補だったアメリカのジャネット・リンの「すってんころりん」が有名だ。この時も会場にいたのだが、尻もちをついた彼女が「やっちゃった!といった笑顔で立ち上がった姿が微笑ましく、拍手が会場を波打っていたものである。

その4,5日前、ジャンプ選手が合宿している定山渓温泉の近くの宿舎に笠谷選手のインタビューに行った。笠谷選手の兄がコーチで、一切を仕切っていたのだが、約束の時間から1時間半経っても出てこない。タクシーは外に待たしたままである。中からは笑い声がしてきたが、それでも出てこない。しびれを切らしてとうとう文句を言った。笠谷兄と口喧嘩になった。それを取り直すように本人が出てきて10分ほどインタビューをしたものである。

それから何年か経って東京でまた笠谷幸生と会った。今度はニッカウヰスキーの広報部長という肩書だった。ニッカの本社は北海道・余市にある。ここの余市高は笠谷の出身高でもある。竹鶴正孝夫妻がまだ存命で、竹鶴をイギリスまで送り出した大阪の摂津酒造の当主の三男坊と私は、小中高通しての親友で、スコッチの話などで盛り上がった。

ニッカの直営バーで「うすけぼー」というのが日本橋三越近くにあるのだが、ここの会員になってほしいといわれてボトルを置いた。ブログ子がいた新聞社と徒歩圏内でもあり数年前まで足しげく通った。時に笠谷と一緒になることもあったが、次第に疎遠になった。昔から口数は多い方ではなかったが、次第に鬱症状のようなことが多くなり会話が切なさそうだったからだ。

ほとんどの人は知らないだろうが、ジャンプ台の最上部の雪の壁には、黄色い小便の跡がいくつも穴をあけていた。ジャンプ寸前の選手たちが緊張のあまり放出したのである。

当時、札幌の街には札幌オリンピックのテーマソングである「虹と雪のバラード」がいつも流れていた。大倉山シャンツエで味わった日本人としての誇らしい高揚感は今でも鮮烈に思い出すことができる。しかし今や、オリンピックは世界中で金がかかり過ぎると敬遠される。札幌市は2回目の開催申請を見送った。

そして今回、訃報に接した。古き良き時代のオリンピックとともに見送りたい。

コメントは受け付けていません。