職業に貴賤あり

当ブログが再三再四、かれこれ10回以上になるだろうが、糾弾これつとめてきたリニア新幹線反対の「ベニスの商人」男、川勝平太・静岡県知事がやっと辞職した。快哉を叫んでこれ以上は書く必要はないところだが、最後にとどめの筆を執る。

川勝知事辞任の発端は、新しく入庁した職員を前にして「毎日毎日、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、モノを作ったりとかと違い、基本的に皆さま方は頭脳、知性の高い方たちだ」という一言。職業差別そのものの発言だが、揚げ足取りのように辞めさせられる不満なのかこう言ったものだ。

「職業差別というのは、悪なんですよ。私のは(発言内容を)全部見ていただければ分かるが、生業(なりわい)の違いはあると、いうことです、区別と差別とは違うわけですね。職業に貴賤はないんですよ」

そこでブログ子が川勝平太知事に言いたいことは、「職業には貴賤がある」という厳然たる事実である。

「職業に貴賎なしというのはウソである」と喝破したのは山本夏彦翁である。今は正業であるかのごとく振る舞っているが、賤業であるものは、昔の言葉に言い換えれば見分けがつく。「高利貸し」は「銀行員」に、「三百代言」は「弁護士」に、「羽織ゴロ」は「新聞記者」に・・・とつづく。羽織ゴロとは羽織を着ているゴロツキという意味である。ブログ子は長く新聞記者をしてきたが、見事に「賤業」に分類されているわけだ。

銀行員は経済制度に胡坐をかき、大して働きもせず利息に安住している。弁護士は人間が勝手に作った法律というものをいじくりまわしてあれこれ理屈をこねまわす人種だが、もっと前からあった自然法、つまり道徳というものを忘れている…ということだろう。

新聞記者については夏彦翁はこう書いている「一人安全かつ居丈高なのは新聞の正義だけである。大ぜいが異口同音に言う正義なら安物で眉ツバにきまっている。たとえ肉体は売っても、正義を売り物にするなかれ、と古人が言っている」と宣(のたも)うておられる。

近いところの賤業としては新宿歌舞伎町から今や全国に広まっている、ホストクラブだろう。甘い言葉で女に何十万円ものシャンパンを売りつける。売掛金が何百万、何千万になって返済ができないと、女性に大久保公園で「立ちん坊」という売春行為を働かせたり、海外にまで売り飛ばす。こんな輩に川勝平太は「職業に貴賤なし」と言えるのか。

ようやく下火になった新型コロナでは、東京都が休業補償や損失補助を出したが、これにはホストクラブやキャバレーなどが群がり、正確にははじき出せないが、統計では「夜の街関連」と呼ぶところは巨額の補助金を搾取した。こうした「スケベ産業」に補助も補償を出す方が悪い。

コロナでは正業とされる事業者も悪行を働いた。政府はこれまで、コロナ対策として100兆円を超える予算を計上してきた。会計検査院が行った各省庁や自治体への調査で、不正や無駄があるとして「不適切」だと認定した事業の総額は、今年2月末時点で延べ51事業、約1600億円である。

ユーチューバーなどという怪しげな輩も登場してきた。過激な内容の動画で再生回数を増やし、広告収入を得ようとする配信者が後を絶たない。飲食店での迷惑行為などを配信する「迷惑系」のほか、一般人を「犯罪者」として拘束したり、交番に突き出したりする「私人逮捕系」もあるという。

世の中、次々と「賤業」が出てくるのに「職業に貴賤なし」などと大法螺吹いてる場合か。

◇ ◇ ◇

上のように「職業に貴賤あり」と書いた直後、歌手のさだ・まさし氏の「昭和の子どもはお金は汚いものと教わった」という一文を拝読、いたく共感した。拙稿と相通じるのでそのまま採録する。

卑怯者、名を名乗れ!日本社会にはびこる名前のない怪物
シンガー・ソングライター さだまさし (2024/4/14 産経新聞)

日本人は危殆(きたい)に瀕している。

まず面倒な仕事を嫌い、汗をかいてまでの大変な仕事はしたがらない。僕は70歳を過ぎても汗をかいて面倒な仕事を続けているから胸を張って言うけれど、かつて「働かざる者喰うべからず」と言われた。高度成長期の必死さは失せ、楽にお金を手に入れる方法ばかり考えているようで哀しい。

しかも休んでばかりいる。土曜、日曜が休みなら1年にざっと104日。祝日と振替休日で年20日。正月休みに盆休み、有給休暇を加えれば3日に1日はお休みという勘定だ。30年に及ぶデフレとの戦争に疲れ果て、給料が上がらないなら休んだ方がまし、という諦めか。頑張って働いても賃金が上がらないなら少しでもお金を多く呉れる場所へさっさと転職する時代。人の技能や手腕は「我慢の上に咲く花」などという考え方はもう過去の遺物だろう。

昭和の子供は「お金は汚いもの」と教わったが今は違う。その人がそれを得た手段や手法はさておき、とにかくその人の持つ「お金」を羨む時代。お陰で罪を犯し、仮に殺人犯になろうとも簡単にお金を手にする道を選ぶ若者が現れた。拝金主義の末路だ。長い人生のいよいよ晩年を迎えた老人のなけなしのお金を掠め取って恥じぬ神経は、学校教育と家庭教育の賜物。彼らの不気味な「心根」こそ社会が育てた名前のない怪物だ。しかもその怪物の卵は平和・安全への油断と共に誰の心の奥にも潜む。傍若無人な無法自転車やスマホ歩きの信号無視とも決して無関係では無いと思う。

自分の都合が全てに優先するという考え方は怪物の顔の一つ。誰が迷惑を被ろうとも自分の都合を押し通そうとするこの怪物。昔は利己主義と軽蔑したものなのだが、自分の心の都合が最優先されないとなると怪物は屈折して様々な形の牙を剝く。たとえば職場や学校での虐めや、他人を汚すSNSの書き込みなどだ。あらん限りの罵詈雑言や脅迫まがいの悪辣な言葉を吐き散らす本人が、普段は必ずしも悪辣な人物とは限らない。誰とも会わずに済む「覆面」の卑劣さの発露なのだ。時代劇では「卑怯者!名を名乗れ」と言う。名乗らずに斬りかかるような卑怯は侍の恥というわけだが、今は勧善懲悪も鼻先で笑う時代になった。

どんな仕事にも毀誉褒貶は付きものだ。人を羨んでもキリが無く、人を侮れば後はない。淡々堂々と歩くことはとても難しいことだけれど、僕は幸運にも好きな仕事に恵まれ、好きならば苦しくても楽しく、どんな苦労でも我慢出来ることを仕事に教わった。これ程の幸せは無いと、天の神様に心から感謝しているところ。

 

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