11月はよく人が死ぬもので、このブログで訃報を書くのはこれで連続3回目になるが、大相撲で優勝10回という輝かしい記録を誇る第52代横綱北の富士が亡くなった。九重部屋を引き継いでからは千代の富士、北勝海の二人の横綱を育て上げた。関取が一人もいない部屋も珍しくないのに、輝かしい相撲人生だ。
ブログ子はそれほど相撲に精通しているわけでなく、家内の方が連日テレビで序二段あたりから見ていて、最近の相撲取りの名前など教えてもらっているほどなのだが、一時期、部屋でちゃんこを食べるは、横綱の誕生日のパーティーに呼ばれるは、正面溜りの砂かぶりに座るは、なまじの「通」より、入り浸っていた。それで表題のようなことをおのずと知っていた。
ブログ子を相撲に誘ってくれたのはジャーディン・マセソンのトップだったイギリス人だ。この会社は教科書の歴史で出てくる東インド会社に始まる大英帝国の系譜に連なるビッグ企業で、今では日本法人になって社長がいるようだが、当時は極東支配人とか東京支配人とかいう肩書だったが、日本暮らしが長く、その間に大の相撲びいきになった人だった。
取材で知り合って、なぜか気が合って相撲取りがよくいく浅草の「どぜう」屋に連れて行ってくれたりしていた。彼が権利を持っている、溜り席に座った時など、正面に座る親方のすぐそばで、親方の裾を踏みそうな最前列だった。若い衆が来たらお包みを千円渡してくれ、脱いだ靴は座布団の下に置け…こまごまとした作法をイギリス人から教えられたものである。
その彼が毎年千代の富士の誕生日の11月に原宿のバーでパーティーを開催していて、そこにブログ子も招かれて出かけたのであるが、主賓は千代の富士で、その親方が付き添いの北の富士という関係なのだが、軽妙なおしゃべりと言い物腰と言い、人の輪ができる北の富士が主賓のような会だった。
ジャーディン・マセソンの主な扱いは洋酒である。シャンパンの王様「モエ・エ・シャンドン」で乾杯した後、ブランデーの「ヘネシー」や「スコッチ」のシングルモルトなど、よりどりみどりで飲むのだが、現・元「横綱」2人の酒量のすごいこと。瓶1本が30分足らずでなくなるくらいだった。
千代の富士はたまに笑い顔を見せるが無表情か仏頂面が多かった。そのとき件のジャーディン・マセソンがそのわけを教えてくれたのが表題のようなことだった。
彼が言うには、現・横綱である千代の富士の稼ぎのかなりの分を親方の北の富士がピンハネするからだという。角界ではそんなこと当たり前なのだが、千代の富士はどうにも我慢が出来なかったらしい。
北の富士は北海道旭川出身となっているが、正確には美幌町である。ブログ子は学生時代に屈斜路湖から便乗したトラックの荷台に乗って美幌峠を超えた際、折からの寒さで凍傷になったことがある。トラックの持ち主である美幌町の商店主の家に運び込まれてガンガン燃えるストーブで事なきを得た。「その家、俺の親戚のナントカじゃないのかなあ」とひとしきり美幌町の話をしたものである。