裁判所自らが「法匪」と化した

「法匪」という言葉がある。「匪」は賊や暴徒を意味する蔑称で、法律を詭弁的に解釈して、自分に都合のいい結果を得ようとする者を指す。中国や北朝鮮など共産党一党独裁体制国家では裁判所は共産党の下にあるからまるごと「法匪」みたいなものなので、あまり使わない。自由主義国家を標榜するもののその国のある勢力をおもんぱかって裁判所が甘い判断を下す後進国でもっぱら使われる。

ところが三権分立が確立している日本でこのところおかしな判決、自縄自縛判決とでもいうべき馬鹿らしい判決が相次いでいる。裁判官が、おかしな説を振り回して世間を混乱させているのである。昔、吉田茂首相はこういう輩を十把一絡げにして「曲学阿世の徒」と言った。

怪しげな法理論に見舞われた大飯原発

怪しげな法理論に見舞われた大飯原発

5月21日の福井地裁(樋口英明裁判長)における、大飯原発3、4号機再稼働「差し止め判決」の当日、このブログで「おかしな判決もあるもんだ」と書いた。その後判決内容を読んだが、ますます「おかしな判決だ」と思うばかりである。

いきなり「人格権」を持ち出し、「(人格権は)全ての法分野において、最高の価値をもつとされている以上、これを超える価値を他に見出すことはできないから、大飯原発3号、4号再稼働に関する適否は、原子力規制庁という行政権とは無関係に福井地裁の裁判権に属する」というのだが、そうだろうか。憲法のこの下りには「公共の福祉に反しない限り」という一文が付いている。いわば安全保障上に関することは人格権に先立つものであることを無視している。

数え上げると紙数が尽きるからもう1つだけにするが、「地震の揺れあるいは強度は、複合的重層的で地震学ですらあてにならない。我が国において記録された最大震度は宮城内陸地震の4022ガルで、大飯にも生起する可能性がない事は無い。したがってかようなものを大飯で再稼働してはならない」というに至っては、非科学的というしかない論理だ。

「原発のコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発運転停止により多額の貿易赤字が出るにしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活している事が国富である。これを取り戻す事ができなることが国富の喪失である」というに至ってはもはや理屈をこねくり回したポエムの世界である。

ハムレットのような諫早の水門

ハムレットのような諫早の水門

国営諫早湾干拓事業をめぐって「開けてはならない」とする長崎地裁判決と「開けろ」とする佐賀地裁の判決が出て、この結果国は開門してもしなくても「1日49万円の制裁金」を払い続けることになった。裁判というよりもはや笑い話の部類に属し、将来、国語辞典には「矛盾」の典型的な例として載るに違いない。

6日福岡高裁(一志泰滋裁判長)が出した判決は、開門しない場合に強制金の支払いを国に命じた佐賀地裁の間接強制決定を支持し、国の抗告を棄却したもの。国が開門を求める漁業者らに1日あたり49万円、年間1億7千万円を支払う。 間接強制は、判決や決定を守らせるため、「罰金」にあたる強制金の支払いを命じて圧力をかける手続き。長崎地裁は昨年11月、開門反対派の訴えを認め、開門を差し止める仮処分を下し、今月4日には開門した場合、1日49万円の制裁金を地元住民に支払うよう命じる間接強制を決定していて、この結果国は上述のように開門してもしなくても1日「49万円払う」という馬鹿らしいことになった。

本来ならこうした矛盾した判決は最高裁まで持って行って判断するものだが、2010年開門を命じた福岡高裁判決について、菅直人首相(当時)は地元の意向を無視し、上告せずさっさと確定させたことが今日の事態を招いた。菅直人首相はかねてより自民党が推進していたこの事業を「無駄な公共事業」として強く批判し政権を取る前に市民運動家やTVカメラを伴って水門を訪れて水門をただちに開けるように要求するなどの行動をしていた。

こうしたことから福岡高裁の判決に得たりや応とばかりに上告を断念、県知事や官房長官が説得するも「私が決断したことだ」と高裁判決を確定させた経緯がある。その後の調査で開門の利点より、被害がはるかに大きいことが明らかになり、国はにっちもさっちも行かなくなったのだ。菅首相がいたのはわずか1年ほどだが、福島原発事故で怒鳴りまくって現場を混乱させるは、水門で禍根を残すは、まったくろくでもない事績しか残さなかったことになる。

怪しげな独断。矛盾に満ちた判断。二つの裁判についていち早く是正するためにも、裁判所は特別抗告してでも最高裁に判断を委ねるべきではないか。

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