どこから湧いてきたのか日本のサッカーファン

ワールドカップブラジル大会【日本-コートジボワール戦】をみた。ブログ子が見るとたいてい負けるので新聞で見ることにしているのだが、テレビのスイッチをつけてすぐ本田のゴールがあって引き釣りこまれたが、ジンクスどおり1-2のまま終了 日本は逆転負けで初戦を飾れなかった。ひところの日本チームはいつ見ても横パスばかりで強豪国のような怒涛の攻撃が見られなかったものだが、今ではかなり良くなっていると思う。

ブラジルまで押しかけた日本人サポーター。そのかず7000人。

ブラジルまで押しかけた日本人サポーター。そのかず7000人。

このブログを書いているときはまだ視聴率が出ていないが、日曜日の午前10時、CM抜きのNHKとあれば40%くらい行ったのではないかと思う。渋谷の駅前は人で溢れていたし、テレビはどこのチャンネルからも各地のパブリックビューイングからのニッポンコールが届けられていた。いつからこんなに日本はサッカーファンが増えたのだろうと不思議でならない。

(関東地区が前半42・6%、後半46・6%だった。瞬間最高視聴率は、後半に日本の選手が交代した直後のの50・8%だった。)

ワールドカップ・イタリア大会(1990)の時、オランダ最南端の古都マーストリヒトにいた。日本にプロサッカーチームが誕生する前で、日本は出場してなかったので、開催されていることも知らなかった。家内が作陶した大きな壺がKLMオランダ航空本社の入り口に飾られていた縁で、同社の幹部から「めったにない機会だよ。イタリアまでの航空券と入場券をこちら用意するから見に行ったらどうか」と勧められたが断った。

町を散歩したら、おりから試合中継中で、パトカーの警官まで店先にクルマを止めてテレビ観戦していた。平坦なオランダには珍しく坂のある町で、テレビも見ずに観光にあえいでいる日本人をみたパブの若者たちが、店の中に誘ってくれた。上半身裸で腹にオランダ国旗を巻きつけたのが、「いま、オランダが勝っている。ビールをおごるよ」といってくれた。ところが、ありがたくご馳走になっているうちに同点に追いつかれた。みるみる連中は不機嫌な顔つきになってきた。さあ困ったことになった。ここは「ダッチカウント」(割り勘)という英語にいまも名をとどめる国である。ご馳走になったものか、払ったものか、悩みに悩むこととなった。おしまいまでいて殴られるよりよかろうと判断して、大きな声で「ごちそうさま」というと飛び出した。

今大会開幕戦はそのオランダと前回の優勝国スペインだった。5-1という大勝である。あの時と同じ光景が繰り広げられているのだろう、ビールを5杯は奢ってくれたろうと、小さな古都の往時が偲ばれた。

外務省によると大会期間中、7000人を超える日本人がブラジルへ観戦に訪れるという。ハワイ観光などと違って丸一日飛行機に乗っているような遠隔地でこの人波である。日本人サポーターはどこからこんなにたくさん「湧いて」きたのかとイタリア大会当時との隔世の感にひたるのである。

予兆はあった。このころ日本人はプロ野球と高校野球に熱中していた。ブログ子は野球王国静岡で新聞社の支局長を務めたことがある。日曜日にはリトル野球の大会で賞状授与に駆り出されることが多かった。新聞社から賞を出している手前できるだけ顔をだすのだが、野球王国にしてすでにサッカー大会の方が多くなっていて、3:2くらいだった。

このころ開校準備をしていた私立高校の開設準備委員が呑み屋で「静岡で生徒が集まらなくて関西のリトルまで声をかけている」と言っていた。高校野球をダメにしたのはこうした”営業方針”を隠さない野球学校とオラが町の代表という人気で支えられていたことを忘れた朝日・毎日新聞である。プロ野球をダメにしたのは、つぎつぎと大リーグに選手を持って行かれているのに為す術がないコミッショナーである。

サッカーはどんどん地元密着型に衣替えしている。サッカーと野球の格差はこうして広がるばかりである。ちなみにサッカーと言っているのはアメリカと日本だけであとの国は「フットボール」でないと通じない。

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