「対馬丸」と同じく「3船殉難」を忘れてはならない

「対馬丸」慰霊碑に花を手向けられる両陛下(27日)

「対馬丸」慰霊碑に花を手向けられる両陛下(27日)

沖縄県を訪問中の天皇、皇后両陛下は27日午前、太平洋戦争中に撃沈された学童疎開船・「対馬丸」の慰霊碑「小桜の塔」(那覇市)を初めて訪れ、供花された。 「対馬丸」は1944年8月22日、那覇から長崎に向かう途中、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦の魚雷を受けて沈没。学童780人を含む少なくとも1482人が死亡した。今年は沈没70年の節目で、両陛下は、同世代の多くの学童が犠牲となった対馬丸に以前から強い関心を持っておられて慰霊を希望された。

「小桜の塔」は、戦没学童慰霊のため1954年に建立され、そばには対馬丸犠牲者の名前を刻んだ石碑もある。スーツにネクタイ姿の天皇陛下は、皇后さまとともにゆっくりと塔の前に進み、深く一礼した後、白菊の花を供えられた。続いて10年前に開館した対馬丸記念館を訪問。学童らの遺品を見て回り、遺族らとも面会された。

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天皇陛下は当時小学1年生で日光に疎開されておられた。同じ年頃の児童が多く犠牲になった「対馬丸」事件に強い関心を示され、この日の慰霊の旅を自ら希望されたのだが、このときおそば近くで侍従をしておられた東園基文氏はその後掌典長や神社庁総裁をされて先年亡くなられたがブログ子はよく存じ上げていた。

私事にわたるが学生時代北大馬術部で馬に乗っていた。新聞記者になって馬術部東京OB会に顔を出したら会長が東園さんだった。そのお世話で御料牧場の羊肉でジンギスカンをしたが、気軽に周りのOBの子供達の世話をされていた奥様は明治天皇のお孫さんにあたる方でお妃選びの時名前が出る学習院の常磐会の会長もされた。

このOB会で先輩にあたる大場善明氏からはじめて「小笠原丸」など「3船殉難事件」を聞かされた。日本の降伏文書への調印予告、および軍隊への停戦命令布告が出たあとの昭和20年(1945)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が相次いでソ連軍の潜水艦攻撃を受け、沈没するなどして実に1708人が犠牲になった事件である。ソ連(その後ロシア)側は今も認めていないが、この潜水艦はソ連側の公式記録では「L-19潜水艦」で「1945年8月23日、宗谷海峡にて機雷により沈没、乗員は全員戦死」となっている。

余談だが、「小笠原丸」には先ごろ亡くなった元横綱 大鵬(納谷)幸喜氏母子が乗っていた。途中寄港した稚内で船酔いで下船して九死に一生を得た。船酔いがなければ不世出の横綱はいなかったのだ。

大場さんのメールにはこうあった。
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当時、私は札幌の幌北小学校3年生。母に連れられて夏休みを留萌近くの増毛の知人宅で過ごしました。私たちが増毛に到着する2日ほど前、上記の遭難事件が起きていました。その日、海辺のすべての家の柱時計が、ソ連潜水艦の発射した魚雷の爆発音で「午前4時20分」で停まっていたと言います。

増毛町にある「小笠原丸殉難碑」

増毛町にある「小笠原丸殉難碑」

夜が明けて明るくなったころ、救命ボートにしがみついた遭難者の姿を見て、海辺では大変な騒ぎとなりました。浜の漁師たちは、引揚船の遭難者を見て「避難民」を聞き違えて、「シナミン」(支那人)との噂で大変でした。私たちが「増毛」に着いたお昼頃にも、「小笠原丸」遭難者の遺体が海岸に打ち上げられる光景に足がすくみました。

今でも忘れられないのは、生後1年にも満たない赤ちゃんを背負い紐で結び、救命ボートでこと切れていた母子の姿でした。赤ちゃんのまるまる太った指が、魚に食いちぎられ爪から先が見当たりませんでした。この光景は、たぶん、一生忘れないでしょう。今も増毛海岸には「小笠原丸遭難碑」が残っているそうです。

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