他人の懐勘定をするのは下司と決まっているが、このところ日本企業が外国人トップを起用する人事が増えるとともにその高額報酬が株主など社の内外から厳しい視線を浴びることが多くなった。
日産自動車のカルロス・ゴーン社長の役員報酬が2014年3月期は9億9500万円になり、日産の4倍以上の純利益を稼いだトヨタ自動車の豊田章男社長は、前年より4600万円増えたものの2億3千万円だった。24日に開かれた日産の株主総会では、株主から報酬が「高すぎる」という意見が出た。これに対し、ゴーン氏は「日本でなく世界の企業と比べて欲しい」と反論した。平成26年3月期決算の上場企業で1億円以上の報酬を受け取った役員数が27日時点で273人に達したそうだ。最高額は、東証2部上場で電子回路基板の製造を手掛けるキョウデン(長野県箕輪町)の橋本浩最高顧問の12億9200万円だった。
ブログ子は自分がいくら給料をもらっているかついぞ知らずに過ごしたから、ただただ、そんなものかと思うだけだ。オーナー社長がいくら報酬を取ろうとその会社の勝手である。自分で作り上げたのだから潰さない限り許されることだ。しかしゴーン社長の場合「高すぎる」と思う。
日産はプリンスやフェアレディーの名車があるが買おうと思ったことはない。労働貴族に食い物にされた歴史を知っているからだ。日産自動車には、かつて3人の「天皇」がいた。銀行出身の川又克二社長(86年、81歳で死去)、生え抜きの石原俊社長(03年、91歳で死去)、自動車労連(現・日産労連)の塩路一郎会長(13年、86歳で死去)である。
小説にもなったほど社内抗争は激烈を極め、川又と蜜月関係を結んだ”労働貴族”塩路が、石原と激しく対立した。70年代後半からの日産の「三頭政治」のために超優良会社だった日産は凋落し、仏ルノーに身売りしなければならなくなった。ルノーからやってきたのがゴーン社長で、好業績をバックにルノー本体のトップにもなった。
当時日産は労働争議を繰り返していた。興銀から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了させようと考えた。それまでの反組合運動を買われた塩路一郎はやがて役員人事にも介入するようになった。
川又=塩路の蜜月は20年間続いた。77年6月、社長に就任した石原俊は「労使協調路線の名を借りた労組(=塩路)の経営介入がある限り、日産に21世紀の繁栄はない」と考え、労使関係の是正に乗り出した。
英国工場の建設計画で、塩路の反対を無視して進められたため、塩路が率いる自動車労連は記者会見して英国進出に反対を表明。塩路は「強行したら生産ラインを止める」と迫った。会長の川又が塩路を支持し、社長の石原を批判したため、社内は大混乱に陥った。
84年1月、写真週刊誌「フォーカス」に「日産労組『塩路天皇』の道楽-英国進出を脅かす『ヨットの女』」というタイトルで若い美女と自家用のヨットに乗った塩路の写真が掲載された。4000万円はするといわれたヨットを所有していただけではない。品川には7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回していた。「(労組の指導者が)銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪い」と公言する塩路のコメントもあった。
この写真爆弾で、石原は塩路にトドメを刺した。長年に及ぶ組合内の独裁や、「労働貴族」と呼ばれる豪華な生活に不満を募らせていた工場勤務の組合員からも厳しい批判を浴び、事実上、解任される形で、86年2月に自動車労連と自動車総連の会長を辞任した。
つまり社内抗争に明け暮れなければ日産は優良企業でいられたのだが、トップの思惑に使われた労働貴族に吸い取られて企業が傾いた。「世界の企業と比べる」までもなくゴーン社長がいなくても日産は屋台骨がしっかりした会社である。ところが、かっての塩路に変わって今度はゴーン社長の高額報酬ときた。
そのせいか日産自動車が苦戦している。円安にもかかわらず2年連続で業績を下方修正し、国内自動車メーカーの中では「一人負け」の状態だ。その上で、日産社史を振り返って、改めて10億円報酬は高い、と思う。