この男への憤激がまだおさまらない

前回このブログで書いた、新井礼人(あやと)ちゃん(3)を殺害した永富直也(20)への怒りがまだおさまらない。鬼畜、人でなし、畜生にも劣る、と並べてみてもそんな言葉など遠く及ばない人間性のかけらもない犯行である。そんなおり、我が意をとらえたような新聞コラムをみつけた。
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読売新聞「編集手帳」

吉野弘さんに『眼(め)・空・恋』と題する詩がある。〈私は断言する/見るに値するものがあったから/眼が出来たのだと〉。値するものとは、たとえば美しい空であり、恋人だという◆〈今一つ私は断言する/美しいものは/眼の愛に射られて/より美しくなってゆくと>。わずか3年余りの生涯である。その子にも、見るに値するものがこの世にあっただろうか。まなざしの愛で射抜いてみたいほど美しい何かに出会えただろうか◆東京都大田区の新井礼人ちゃん(3)である。「にらんだ」と、ただそれだけの理由で、同居している母親の交際相手(20)から凄まじい暴行を受けて死んだ◆短い人生の最後に、目はどんな風景をみたのだろう。「飛び降りて死んでしまえ」と連れ出されたベランダか。床に突き立てられた包丁か。体ごと投げつけられたガラスケースか。繰り返し顔を打つ男の手か。脳天や肩に降ってくる格闘ワザ「かかと落とし」の足か。これを虐待死とは呼ばせない。虐殺である◆新聞に、あどけない目をした遺影が載っている。罪に見合う罰に思いをめぐらせるとき、ある二文字が脳裏を離れない。
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ブログ子は「死刑」の二文字を思い浮かべた。前回刑罰の強化を訴えたが、この男は「やることやった 人生に悔いはない」とうそぶいているという。20歳そこそこのヤクザ人生で悔いがないとは頭の程度がわかるというものだ。警察は傷害致死罪で処理しようとしているがとんでもない。この罪名ではほとんど懲役8年以下で出てくる。礼人ちゃんへの恐ろしい犯行内容を見たとき、とても見合う刑期ではない。殺人罪、それも被害者数を1人とカウントするのではなく、多くの人を殺めたと同じだと判断すべきでないか。反省のかけらもなくケロッとした無表情なこの男の顔など2度と見たくない。

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