何か哀れを催す70歳革マル闘士

革マル派の関係先の捜索=葛飾区青戸3

革マル派の関係先の捜索=葛飾区青戸3

賃貸住宅の更新の際に偽名で作った書類を提出したとして、警視庁と神奈川県警は10日、有印私文書偽造・同行使容疑で、革マル派の植田琢磨議長(70)が住民登録している神奈川県の団地の1室と、東京都葛飾区の関係先の計2カ所を家宅捜索した。

警視庁公安部は植田議長について、本名は「新田寛」と特定。植田議長は平成8年に黒田寛一前議長から引き継いで革マル派最高幹部となったが、実名が判明するのは初めて。

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このニュースを聞いてブログ子は過激派にもとうとう高齢化の波が押し寄せたかと、ものの哀れを感じた。いまどき中核派だ革マル派だといっても世間に理解してもらえないだろう。人生のほとんどを「革命ごっこ」に費やす意味なんてあるわけはないが、党派間ゲバルトの犠牲者は113人、負傷者4600人(2005年時点)である。遊びの「ごっこ」の領域を超えているから深刻ではある。「新田寛」氏の、転向もしないでこの歳まで革命の夢を追い、本名を隠してアジトを転々とする人生を思うとどうしてもものの哀れを感じざるをえない。

ブログ子は60年安保世代である。当時は唐牛健太郎全学連委員長が率いていた。ブログ子は北大での同級生だった(向こうが年上だが彼がドッペってきた)。革マル派のヘルメットの「Z」は全学連からきているが、全学連が路線対立して分派が分派を呼んで、1963年に分裂した両派だが、..いつしか過激派になるのは70年安保あたりからである。査問、リンチから死者が出たことが発端となり、お互いのメンバーを殺し合うようになった.。

もともとは同じ根っこだったが、トロツキー派と、反スターリン派に分派、前者が中核派、後者が革マル派というモンスターに育った。トロッキーもスターリンも過去の彼方だが、「血が近いものほど憎みあう」の例え通り、殺し合いはすさまじかった。1973年から3年間ぐらいがピークで、新聞記事を探せば夥しい闘争史が出てくる。2003年ごろにはほぼ終息しているが、今でも時々、大学や郵便局に潜んでいる闘士の襲撃劇が新聞をにぎわしている。

新聞記者時代、中核派の「千早城」(豊島区千早町にあった)がたびたび警視庁から手入れされるのに立ち会ったが、取材記者でも両派の違いを説明できるものなど皆無だった。それくらいわけがわからぬほど分裂していったのである。

革マル派は正式には「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(略称:革共同・革マル派)という。対立する日本共産党からは「ニセ左翼暴力集団」、中核派からは「反革命ファシスト集団・カクマル」、社青同解放派からは「反革命革マル」などと呼ばれている。ちなみに中核派の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」という。

革マル派は捜索を受けたことについて「警察権力による不当な捜索を弾劾する。不当性は明らかである。新田寛議長が植田琢磨議長というペンネームなどというのは、笑止千万の妄言である」とのコメントを出した。

「時代錯誤」の言葉しか浮かばない。

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