沖縄県民斯ク戦ヘリ

陸上自衛隊第15旅団(那覇)は今年元日から、公式ホームページ(HP)をリニューアルし、昨年10月末から掲載を見合わせていた沖縄戦司令官の辞世の句を再び掲載した。

ブログ子はこのニュースを快哉とともに受け止め、自衛隊は今後も沖縄の「マスゴミ」に惑わされることなく、前を向いて進まれんことを希求する。

いつものように、産経新聞にしか掲載されなかったので、これまでの概略を書く。

先の大戦末期の沖縄戦で旧日本軍を率いた牛島満司令官が沖縄の再興を願って詠んだ辞世の句が第15旅団のHPに掲載されたのだが、地元メディアの報道をきっかけに、一部の市民団体などから「自衛隊による旧日本軍の美化」といった反発が出て、自衛隊側はいったん引っ込めていた。

沖縄戦では、日米約20万人が戦死し、沖縄県民の4人に1人が犠牲になった。日本側の指揮をとった牛島満(うしじま・みつる)中将は、1945年6月22日(23日)に摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決して組織的戦闘が終結したのだが、この時、祖国の復興を願って辞世の句を残した。

《秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ》

この辞世の句は平成30年から旅団の沿革を紹介するページに掲載された。沖縄が本土復帰を果たした昭和47年、旅団の前身にあたる臨時第1混成群の初代群長を務めた沖縄出身の桑江良逢(りょうほう)氏の訓示とともに、この辞世の句を残した、その歴史的資料として示していた。

ただ、掲載から約6年が経過した昨年6月になって、地元紙が疑問視する報道をすると、県内の一部識者らが「県民を犠牲にした日本軍と自衛隊のつながりを示し、美化するような内容」などといっせいに批判し始めた。

「陸自HPリニューアル 日本軍との連続性を絶て」(琉球新報社説)
「陸自HPに牛島司令官の句 極めて不適切 削除せよ(沖縄タイムス社説)

沖縄タイムスなどは陸自大宮駐屯地の第32普通科連隊が、「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島」と書いたといっては文句をつけ、陸自幹部や宮古島駐屯地の幹部らが制服を着て神社に集団参拝したといっては非難する、いわばこの種のクレーマーとしての常連で、ほっとけばいいものを、防衛省は「誤解を招いた」として「大東亜戦争」などの語を削除したりするものだから、つけあがる。今回のように毅然とした対応をとれば、おのずと淘汰されるものだ。

細かいようだが、復活した辞世の句は、

《秋を待たで 枯れ行く島の青草は 御国の春に よみがえらなむ》

と掲載されている。「皇国」の言葉への反感を考慮したものだろうが、無用である。最初に書かれた「臨時第1混成群史」に掲載された記述に合わせた、というが、この時代は「皇国」が普通だったはずだ。「秋待たで」が「秋を待たで」と修正されているが、これも和歌の作法では「秋待たで」であろう。

ブログ子は読むたびに胸ふさがれる文章が二つある。一つは靖国神社で展示されている特攻隊員の遺書であり、もう一つは1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、海軍司令官の大田実海軍中将が自決直前に海軍次官にあてた電文である。

「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」

その通り、政府は昭和24年から「沖縄振興特別措置法」(通称 おきしん)を毎年3000億円交付している。本土では誰一人反対ないが、沖縄メディアは米軍基地の維持に「ほとんど」持っていかれていると増額を毎年のように要求している。

ブログ子は沖縄には復帰直前の米軍施政下からこれまで10数回訪れている。取材内容が政治的なことだったせいもあるが、どちらかと言えば沖縄タイムス的な言辞を弄する人の方が多かった。対して東京で出会った沖縄人は故郷「琉球」への想いは強いが、左翼に傾く故郷を憂える人が、多かった。

その一人、沖縄出身の女性音楽家「金井さん」は沖縄で音楽会を開くも東京の住まいから帰るそぶりは一切なかった。「知念」氏は警察庁のキャリア官僚で神奈川県警刑事部長の時仲良くなり、佐賀県警本部長のとき、我が家の出自が佐賀県唐津なので虹の松原で松露まんじゅうを食べなさいとアドバイスしたものだが、九州からもう少し先の沖縄にはあまり行かなかった。あれはきっと、故郷に跋扈する左翼嫌いのせいだろうと思う。

彼ら「沖縄左翼」がまだ自分が日本人だと思うのなら、ぜひに上述の「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ」を熟読玩味されんことを願う。

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