読売のドン「ナベツネ」の剛腕を隣の新聞社から見ていた

読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が肺炎で98歳で亡くなった。その絶大な影響力は政界からプロ野球界、はては大相撲まで及ぶ。その深い懐の内容については連日のメディアをご覧いただくとして、ブログ子は東京・大手町にある読売新聞社の隣にある産経新聞社からその剛腕ぶりをまぶしく拝見していた。その一端を披歴する。

第2次中曽根内閣のときだったが、各新聞社と も組閣の予想を掲載するのが恒例だった。私も政治部記者と相談しながら予想閣僚名簿を作った。現在では派閥解消が叫ばれて難しいが、このときは各派閥から推薦名簿が出るので比較的推測ができた。

当日になって首相にいろいろな思惑が出てポストが横滑りすることはあるが、入閣者の名前はそう外れないものである。それでも、夕刻発表された名簿では小紙のずばりは4、5人といったところだった。だが、この日の読売新聞朝刊掲載の予想は発表と完璧に同じだった。驚いて、なぜそんなことが できたのか調べた。そうしたら中曽根首相のそばに座って白紙に組閣名簿を書いていったのはナベツネで中曽根首相はフンフンと言っていただけだというのだった。

知られていないがナベツネはコワモテだけの人ではない。読売の副社長時代くらいだったが、月に一回だったか季節ごとだったか、読売の競争紙含めて各新聞社、民放、NHK…とマス コミを縦断して女性記者ばかりを、集め、彼女たちが好むフランス料理店などに招待していた。正式な名称は忘れたが「ナベツネを囲む会」のようなものを主催してメディア各紙の女性記者の意見を丁寧に聞いていたものである。現在はパリにいるが、わが新聞社の女性記者も招かれていた。当然、ナベツネ擁護派でいまだに悪口など書かない。

新聞の斜陽が始まったころだから今から20年ほど前になるか、産経が全国紙で初めて夕刊廃止の先鞭をつけたことがあった。業界用語でいう、「セット割れ」(読者から夕刊を切られる)が急増して、産経の東京本社では実に7割がセット割れに。やむなく夕刊を廃止した(大阪は今も存続)。夕刊の収入(広告料と購読料)が記者、営業担当者らの人件費や設備費、材料費などの発行コストを下回ったためのやむを得ない処置だった。

この時、日本新聞協会長だったのがナベツネで、副会長だった産経社長を鶴の一言でクビにしたものである。今では朝日、毎日、地方紙、ブロック紙みな夕刊廃止の流れで、読売だけ「朝夕刊セット」を固持しているが時間の問題だろう。ナベツネ死去で一気に早まるのであろう。

そのナベツネ氏が文芸春秋の『 私の大往生 』(文春新書)という企画で
■もし生まれ変われるとしたら? という問いにこう答えている。

 それはもう、当然新聞記者ですよ。 もう一度駆け出しから、現場の記者をやりたいね。

ブログ子も自分の人生を振り返って、新聞記者と言う「天職」を得て幸せだったと思っている。テレビに「ジャーナリスト」を名乗る人士は数多いるが、取材もせず、書きもしない「ジャーナリスト」(もとは新聞記者の謂)などまがいものであると断言し、「生涯一新聞記者」を貫いたナベツネ氏に万感の共鳴を惜しまないものである。

コメントは受け付けていません。