公益財団法人に移行した日本相撲協会は1月31日、東京・両国国技館で新法人の理事候補を決める投開票を行い、現職で協会No.2の事業部長だった九重親方(元横綱千代の富士)が落選する波乱があった。
理事候補の定数は10人で立候補者は11人。全親方97人による投票の結果、九重親方は5票でただ一人の落選者。九重親方は「不徳の致すところ」と憮然とした表情で国技館を後にした、という。このニュースに、彼を横綱時代から知っているブログ子は「やっぱり今でも不人気なんだ」という思いを新たにした。
経済部、政治部、社会部と渉り歩いたが運動部だけは経験しなかったブログ子を大相撲に引っ張り込んだのは、幕末から日本と関係を持っているイギリス系コングロマリットであるジャーディン・マセソン社の東京支社長だったか極東支配人だったか肩書は忘れたが英国人だった。いまごろはハワイで悠々と暮らしているのだろうが、彼は「超」がつく相撲好きで、大相撲をまったく知らないブログ子にしきたリから「またわり」まで教えて、「ニッポンの美だ」といってはばからなかった。青い目の男に日本人のブログ子が相撲の一から教わるという妙なめぐり合わせになった。
彼の世話で正面の勝負審判の親方のすぐ横の「砂かぶり」に座ったこともあるし、いくつかの部屋で親方と並んで一番最初のちゃんこ(後になるほど雑になる)まで食べた。
茶屋では心づけをどの段階でいくらぐらい出すかまで教授された。だから当時東の正横綱だった千代の富士の誕生日、6月1日には2回ほど呼ばれた。表参道の青山通りに面したレストランを借り切ってのパーティーで、扱い商品の「モエ・エ・シャンドン」のシャンパンや高級ブランディーの「ヘネシー」飲み放題という景気のよさ。
当時の九重親方、北の富士に連れられて千代の富士が現われたが、ブランディー1本を軽く空けるペースに驚いた。こちらもかなりの飲ん兵衛を自認していたがその比ではなかったのは当然として、この「タニマチ」の英国人が気を使っているのが、正客の千代の富士より親方の北の富士であることに、この世界の序列を見た。本人はすでにこのときから傲慢で有名で、相客であるブログ子に「おい飲み干せよ」と無理難題を吹っかけてきていた。
今回ただ一人落選の理由に付いては「とにかく人望がない」のだという。親方衆の間では「人に頭を下げて頼むことができない」などと言われ、もともと人気が高くない。「相撲界の落合博満」(中日のGM)という声がある。記事にはならなかったが、弟子を竹刀で叩くなどのしごきの噂は昔から付いて回っていた。
他にも協会内部の抗争があるという。出羽海一門のある元三役は「九重さんを落とさなければならなかった」とささやく。協会の全事業を取り仕切る九重親方は、協会と業者との契約などを巡り、北の湖理事長やその側近の事務方と対立を深めた。そこで、理事長が所属する協会最大派閥の出羽海一門が、「九重落とし」に動いたという。(朝日新聞)。
伊勢ケ浜一門は、伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)を第1候補として擁立。第2候補は一門の残り票で戦う友綱親方で、ここに「九重落とし」でまとまった出羽海一門から票が流れたために九重親方落選につながったようだ。 九重親方に近い親方の一人は「このままでは終わらせない」と怒りをあらわにし、3月下旬の新理事会では再選が確実な北の湖理事長と、排除されたナンバー2の九重親方一派の大きなしこりが残り、波乱含みだという。
相撲の見方を外人から教わったが、そのなかで「相撲は様式美だ」というのがある。格闘技ではあるが、勝負の後の「残心」(ざんしん)が大切、といわれたものだ。「技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念」(ウイキペディア)。朝青龍など投げつけた後どうだ、といった顔で相手をにらみ付ける態度で見苦しかったものだ。同じモンゴル人でも白鵬はきれいな「残心」を見せて例外だが、千代の富士にはこれが欠けていた。そこが嫌われる第一の理由だろう。